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初孫ちゃんもうすぐ2歳

さくらぽっぷさんのイラスト


 とある幼児向けの英語スクールのレッスンに見学に行った。外見は、まるで幼稚園のようだ。園庭があり、教室の出入り口には、小さな下駄箱がずらりと並んでいる。教室の中に入ると、普通の幼稚園にあるものより、もっと小さな机と椅子に、子供がひとり座っている。そのすぐ前に、イギリス人の若い男の先生がひとりいて、一対一で教えている最中だ。まず、先生が子供に対して、「Stand up, please!」と言い、立たせた後、かなりのスピードで「head, eye, ear, cheek, mouse, neck, chest, knee, leg」と言いながら、両手でそれぞれ言葉に対応する体の箇所を触っていく。すると子供は、それに応じてその言葉を反復しながら両手で同じように自分の体を触る。慣れたものだ。それがひとしきり終わったところで、先生はラジカセのスイッチを入れて、その言葉を繰り返しながらリズミカルに歌う音楽を流し、子供と一緒に自分の体をまた触っていく。

 それが終わると、再び子供を机に座らせ、精巧な果物の模型を見せて、ひとつひとつ、「What's this?」と聞く。子供は、小さな頭を振り振り、紅葉のような手で指しながら、「apple, banana, orange」と次々に答えていく。正解だと、先生はそのたびに「Good!」とか「Excellent!」と言うのを忘れない。ところが途中で、葡萄について子供が答えに詰まると、先生は「This is a grape.」と言う。それが終わると、ひと息つける間もなく、野菜の模型についても同じことをする。トマト、キャベツと正しく言えたかと思うと、人参のところで子供が「にんじん!」と日本語で叫ぶ。すると先生は苦笑いをして「No, No, This is a carrot.」と言う。そして、もうひとつ黄色くて細長いものを出してきて、「What's this?」と聞き、それに対して子供が「バナナ!」と言えば、同じように「No, This a corn」と訂正する。

 先生は、国旗が書かれた6枚のカードを出してきた。子供にそれを一枚一枚示し、「This is England. This is France. This is Japan. This is Holland. This is Belgium....」などと説明する。そのうえで、それらのカードをテーブルの上に並べ、「Which is France?」と聞く。すると子供は、迷わずフランス国旗のカードを取り上げて「Here it is!」と言って先生に渡す。そうやって日本の国旗、ドイツの国旗、そしてアメリカの国旗は言い当てたが、ベルギーとオランダの国旗については困った顔をした。すると先生は、これがそうだと説明している。しかし、いずれもドイツやフランスの国旗の縦のものを横にしたようで色も似ているし、私自身もわからなかった。

 次は、数字を1から10まで言わせる。子供は、はっきりとした発音ですべて言い終わった。その次はアルファベットで、AからZまでを指し示しながら言わせている。いずれも、かなりのスピードで、私もあのように言えと言われたら、舌がもつれるかもしれないと思ったくらいの早さなのであるが、子供は、健気にもそれに付いていっている・・・。まあ、そんな調子で延々と40分間も休みなくレッスンを続けていって、さあ終わりというときになった。すると、子供が立ち上がって両手を体に沿ってしっかり伸ばし、直立不動の姿勢になり「Thank you for teaching me, Mr. Jones!」と英語の文章をはっきり言ったので、その後ろで見学していた私は、椅子から転げ落ちんばかりに驚いた。

 いったいこれは何かというと、私たちの初孫ちゃんが一月前から受け始めた英語のレッスン風景なのである。この初孫ちゃんは、まだ1歳と10ヶ月、おしめも取れず、ときたま、ほ乳瓶でまだミルクを飲んでいるというのに、もうこんな調子で、英語がかなり出来るようになっている。日本語より出来るのではないだろうか。びっくりしたのは、我々の前では、でれでれと甘えに甘えた挙げ句に「嫌だぁ」としか言わないような「悪ガキ」なのに、どういうわけかこのレッスンの先生の前では、あたかも別人のように振る舞う。つまり、キチンと椅子に座って40分間、一度も見学中の母親を振り返らないで、じっとレッスンに集中しているのである。これが5歳や6歳くらいの子なら、わからないでもないが、まだ2歳にもなっていないこんな赤ちゃんもどきの子が、できるものなのだろうか? でも、確かに出来ているところをこの目で見たばかりだから、間違いない。それにしても、本当に不思議である。初孫の手を握りながらレッスンの教場から出てきたときには、まるでキツネに化かされたような気がした。

 その後、私も先生にお礼を言って、この子はどうかと聞くと「He has a very high concentration and good memory. He remembers what he had learned. He's so smart.」つまり、集中力と記憶力があり、賢いから、大いに期待できるというのである。話半分としても、うれしい話である。それに、今はお試し期間で一回に40分間しか出来ないが、正式に通ってくれれば、この子の能力だと2歳児クラスではなくて3歳児クラスに入れても十分に伍していけそうだと考えているとの有り難いお言葉である。

 しかしまあ、最近の幼児教育は、ここまで進んでいるのかと驚くやら呆れるやらで、一種のカルチャー・ショックを受けた。これが良いのか悪いのか、我々の世代には、およそ考えもつかないことが起きつつある。確かに、私も世界28ヵ国を旅し、条約交渉などの対外交渉事を限りなくやったし、外国に3年間住んでいたこともある。だから、英語を母国語とする人たちにも通ずる英語をしゃべる自信はあるつもりである。それを通じて学んだことは、たとえ発音が下手だったり、特に「r(アール)」と「l(エル)」の区別があやふやだったって、こちらの言いたいことが知的に整理されていて、しかも相手がインテリならば、それなりにしっかりと意思疎通が出来るし、十分に仕事や生活が可能であるということだった。ただ、正直いって、バイつまり一対一の会議ならこれで通じたけれども、それがマルチすなわち多数国間の国際会議になると、こちらが主張しようと思っても、会議の進行が早くてそれに付いていくのに四苦八苦したという記憶がある。加えてそういうときに、たとえばインド人が入ったりすると、あの巻き舌で何を言っているのかわからない上に、よくあれほどまくし立てる言葉があるものだと思うほどに長々と話されると、もうお手上げという気持ちになる。

 確かにそういう場合、こちらも流暢な英語が口からよどみなく出てくれば、対抗できると思った。しかしそのためには、大学を出てから初めて英語を話すことを経験するというのでは、明らかに遅すぎる。私より少し後の世代以降、私の息子の世代までは、大学を出てから留学すればよいというのが常識だった。しかし、発音や日常会話のうまさという点では、それでは全くといってもいいほど、間に合わないのは事実である。ただその反面、頭の中が空っぽだけれども英語の発音だけは良いという単純な英語通より、知識と学識を備え、それなりの中身のある会話が出来なければ、まったく意味をなさないとも思っていた。ところが、もはやそういう考えは、現代では通じなくなっている「古い常識」のようである。それどころか、次の世代に求められる必要条件は、日本人としての十分な知識経験はもちろん、流暢な英語をあやつり、英語圏の人とまったく普通に話せるバイリンガルということ
なのかもしれない。韓国でも、お父さんは自国で働いて稼ぎ、留学するためにアメリカに行ってしまった娘と付き添いの母親に送金するという家庭が多くなってきているそうだ。

 このレッスンを終えて帰る途中、東京駅の新丸ビル7階のレストランで娘たちと食事をしたところ、そこはたまたま外が良く見渡せる席だった。その席で初孫ちゃんが空を見上げると、たまたま満月がぽっかりと浮かんでいた。それを指さしてこの子は、大きな声で「moon」「エンム」と言うのである。後の方は、たぶん「M」と言っているのだろう。「・・・ンム」と付け加えるところが、いかにも英語風ではないか・・・日本人の先生に教わっていたなら、こんなことはまず言えないと思う。そしてまた、たまたま東京駅の電車が見えた。すると今度は「train」と叫ぶ。これまた、ちゃんと「r」が発音出来ている。そうかと思うと、こちらを振り返って、「電車、青、ないねぇ」と言うのである。つまり、緑の帯の山手線の電車ばかり見えて、青い帯の京浜東北線の電車が来ないと日本語でしゃべっているのである。

 まったく、この歳にして、すでに日本語と英語とがちゃんぽんになってしまっている・・・と一瞬、思った。ところがよく観察すると、我々には日本語で会話してくるが、家内が英語でしゃべりかけても、知らんぷりだ。どうやらこれは、人の顔に応じて、しゃべる言葉を使い分けるという高度なことをやっているのかもしれないと思い始めた。我々が東南アジアにいたときも、我々は同様のことをやっていた。つまり、日本人相手だともちろん日本語で話し、西洋人相手にはむろん英語をしゃべり、中国人相手には結局は英語だけれども最初の挨拶は北京語か広東語などと、その相手の顔を見ただけで何も考えないで自動的にその人の言語が出てくるようになっていた。

 昔、何かの本で読んだ話では、確かアイザック・ニュートンは、お父さんは英語、お母さんはフランス語、お手伝いはアイルランド語、やってくる家庭教師はラテン語などと、人は皆、別の言葉をしゃべるものだと、長じるまで思っていたと伝記に書かれていたと記憶している。まあ、人間の言語能力というのは、とりわけ小さい頃のそれは、計り知れないものがあるのかもしれない。

 我々の脳細胞の数は、生まれてから3歳の頃にそのピークを迎え、それから次第に減じていくという研究がある。つまり、3歳までに、使わない脳細胞は次第に淘汰されて、使われる脳細胞と神経ネットワークだけが残るのではないだろうか。そういう意味で、その段階までにたとえば「l(エル)」と「r(アール)」の区別などを脳に入れてやると、そういう神経ネットワークが構築されて、それが残存するのではないかと思われる。とすれば、この初孫ちゃんのレッスンは、それなりの意味があるものと思いたい。しかし、壮大な人体実験であることは確かである。娘も、子供が嫌がれば、すぐに止めると言っている。さあ、どうなるだろうか。

 この学校へは電車で30分もかかるというから、これからどうするのと娘に聞くと、実はこの近くに引っ越すことにしたという。確か、今の住まいも子供を預ける保育園のすぐ近くに引っ越したのだから、そうすると、これは二回目の引っ越しということになる。孟母三遷というが、まだ2歳にもならないうちに、二遷してしまうというわけか・・・す、すごい。

 しかし思い起こしてみると、我々もこの娘が3歳、息子が2歳のときに、新宿のスイミングスクールに放り込んだ。体力を付けさせるとともに、アレルギーの予防と水難事故防止のためだったが、周囲から「おむつが取れたばかりのあんな小さな子をプールに入れて大丈夫?」などと非難めいたことを言われたことがある。しかしそのおかげで、子供たちはほとんど病気をしない強い体と、特に息子は180センチ台の半ばにもなろうという西欧人にも引けをとらない背の高さを得られたと思っているから、大成功したと思っている。この初孫ちゃんの場合は、どうやら体力より英語を選んだようだから、まあ、それも時代の流れで、よしとすべきであろう。





 初孫ちゃんの誕生(エッセイ)は、こちら。
 初孫ちゃんは1歳(エッセイ)は、こちら。

 初孫ちゃんは1歳4ヶ月(エッセイ)は、こちら。
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(2010年11月22日記)

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