徒然296.保活の苦労

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 就職しようとするときは「就活」、それが終わって良い縁に恵まれて結婚しようとするときは「婚活」、結婚したのになかなか赤ちゃんに恵まれないときは「妊活」、無事に生まれて子供を育てるときに直面するのが預かってくれる保育園探しで、これを「保活」というそうだ。それぞれが人生の一大イベントであり、どのハードルも上手くいくように願いたいところだが、そう思う通りにはいかないのが人生の常である。私の周囲でも、「妊活」に励んだがとうとう成功しなかったとか、あるいは「保活」には本当に苦労したという話を聞く。

 「妊活」は、所詮はコウノトリの気まぐれなので、努力しても功を奏しなかったら、私などは養子で良いと考える方だ。外国とりわけアメリカなどではそれがごく普通の考え方なのだけれど、日本では養子という選択肢を選ぶ人は極めて限られていて、むしろ夫婦2人だけの生活を選ぶカップルが圧倒的に多いと思う。なぜなのだろう。確かに子育ては大変だが、同時に夫婦揃ってやり甲斐があるし、自ら人間的にも成長するのにと、私などは残念に思うところである。まあしかし、そのカップルの人生の選択だから、外野からどうこう言うべきものではない。

 「保活」は、女性の社会進出に伴って、この十数年、特に深刻になってきた問題である。昔のようにおじいちゃん、おばあちゃん、他の兄弟、果ては未婚のおじさん、おばさんなどが同居していると、子供の世話は、誰か手の空いた人が見てくれた。ところが私が社会に出た頃から、そうした大家族主義が崩れて核家族化が進み、夫婦2人だけが子供の面倒をみる体制が一般化した。奥さんが専業主婦ならそれで良かったが、立派な仕事をしていると、頼りにするのは遠くにいるおじいちゃん、おばあちゃんか、あるいは近くの保育園か、ということになる。

 我々夫婦の場合は、娘一家がある日突然、同じマンションに越してきて、当時4歳になったばかりの初孫ちゃんの面倒をみる羽目になった。我々夫婦は体力的には疲れたものの、代わりに初孫ちゃんから元気をもらい、その成長を日々見守る幸せを感じることができた。しかし、こういう言わば恵まれたケースは例外的で、一般の方は近くの保育園だけが頼みの綱なのだろうと思う。それも、たった一本の綱なのである。ところが、それが希望者殺到で、なかなか入れないので、今や大きな社会問題となっている。

 最近、その「保活」で、とても興味深い話を聞いた。ある専門職の女性で、3年前に研究職の夫を東京に残して、5歳と0歳の子供2人を連れて関西に赴任したそうだ。そのときは産休明けなので、保育園に入る優先順位が高かったことから、何も苦労することなく、近くの公立保育園にすんなりと入れた。ところが昨年秋になって、再び東京に転勤で戻ってくることになった。人口が伸びている東京は、ただでさえ保育園の激戦区であるし、それだけでなく前回あった産休明けという錦の御旗もなくなってしまった。

 しかし、後顧の憂いなく自分の仕事に専念したい。そこで、関西にいながら、東京23区と周辺都市の情報を全部取り寄せて、待機児童の数、既存の保育園とこれからできる保育園、それらの評判、借りたい賃貸住宅、勤務先への通勤などを徹底的に調べたそうだ。その結果、白羽の矢を立てたのが、国分寺市だったという。それで、国分寺市役所を訪れて、係の人からどんな細かいことまでも徹頭徹尾聞き出し、その一方でストップウオッチを片手に借りるつもりの賃貸住宅と保育園の間を歩いてみて何分かかるか、途中危ないところはないかなど、あらゆることをチェックしたそうだ。

 それで、東京都への転勤が決まるや否や、その賃貸住宅を抑え、市役所への手続を終えて、無事に保育園が決まったという。いや、それはすごい調査能力と行動力だ。日頃から仕事が出来る人であることは聞いていたが、子育てにも、その類い稀な能力を遺憾なく発揮しているらしい。つくづく感心してしまった。





(2018年4月25日記)


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徒然295.六義園のお正月

六義園の池


 六義園は、五代将軍徳川綱吉から賜った駒込の地に、柳澤吉保がその造詣を存分に生かして造った典型的な大名庭園である。本日は、天気はよいものの寒風が吹き抜ける中、朝10時半から開演の目黒流貫井囃子保存会の景気の良いお囃子演奏と、小気味よい獅子舞を見物してきた。後半、獅子舞が客席を回って観客の頭を「がぶり」とやっているとき、お母さんに抱かれた1歳くらいの男の子が、近づいてきたお獅子の頭にまさにかぶりつかれようとしたその瞬間、見事なパンチでこれを撃退したので、皆からやんやの喝采を浴びていた。笑ってしまうが、小さくてもさすが男の子である。将来、有望だ。

目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞







(2018年1月3日記)


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徒然294.芸妓舞妓さんカレンダー

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 師走も半ばになった頃、郵便局から細長い小荷物が届けられた。送り主を見ると、大学時代の友人Aくんだ。あれあれ、本当に久しぶりだなという気がした。添付されている手紙を読むと「五年ぶりに弊社カレンダーを作成いたしましたので、ここにお届けします。一年間お手近に掛けて頂ければ幸甚でございます。」とある。開けてみると、艶然とした笑みをたたえた芸妓さんと、ぽっくりを履いてすっくりと立つ可愛い舞妓さんたちのカレンダーである。

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 ああ、彼の会社も、苦節5年でやっと復活したかと、嬉しくなった。実は彼の会社は、長年、年末になるとこうして舞妓さんのカレンダーを送ってくるのを常としていて、私だけでなく、家内もそれを楽しみにしていた。それが5年前にばったりと止まったら、家内とともに「どうしたのかねぇ」と、気を揉んでいたのである。

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 というのは、ただこのカレンダー・シリーズを気に入っていただけではないからである。ある年、大学時代の同級生とともに、京都で、「卒業後○十周年記念」と名打って、夫婦で参加する大々的な同窓会が開催されたことがある。その行事が終わった後、何組かの有志で、祇園のお茶屋での二次会を開いた。その時にきてくれた舞妓さんを見て家内が、その会社の「芸妓舞妓さんカレンダー」に出てくる舞妓さんだと気がついた。全くの偶然で、その舞妓さんは、「あれ、Aさんのお友達どすか、いつもいつもご贔屓にしてもろうておますぇ。」などと言う。何のことはない、Aくんは、自分が通うお茶屋の舞妓さんたちに頼んで、このカレンダーを作っていたというわけである。まあ、何という優雅な人生だろう。それが、この度再び復活をしたというわけだ。心から喜びたい・・・と同時に、いささか・・・いや・・・大変うらやましい気がするのである。

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(2017年12月15日記)


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徒然293.神田祭 2017年

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 私の家は根津権現から歩いて数分のところにある。湯島天神も地下鉄で一駅行ったところだし、そこから更に少し歩くと神田明神に着く。このうち、根津権現は、秋祭りもあるが、それより毎年5月の躑躅祭りが有名である。その季節になると、境内の片面が、紫、赤、白などの原色で埋め尽くされる。見事だ。湯島天神は、何といっても受験の神様として、そのシーズンになるとお参りする受験生や両親で境内が一杯になるし、そのほか、梅まつりという催しも、なかなか見ごたえがある。

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 神田明神は、2年に1回、斎行される神田祭(神幸祭)は、いつもすごく賑わっているなと思う程度で、全体をじっくり見たことがない。それもそのはずで、1週間にわたって行われるし、神幸祭の巡行は、丸1日をかけて神田、日本橋、大手町、丸の内、秋葉原という広い地域を回るし、御神輿の宮入は、1日半もかけて200基が行うという、大変なスケールのお祭りだからだ。それでも今年は、少しは写真を撮ろうと思っていたが、残念ながら巡行が本番の土曜日は、1日中、雨が降り続いて寒かったこともあり、行く気がなくなってしまった。参加していた人たちは、雨に濡れてさぞかし大変だったろうと思う。ただ、翌日曜日は晴れたので、お昼を食べに出たついでに、少しだけ写真を撮りに行った。

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 神田明神正面の鳥居の脇にいて、これから宮入をする御神輿を撮り、更に境内の中に入って行って、御神輿を中心に人また人で溢れかえる境内の様子を見物してきた。神田祭といえば、御神輿ばかりと思っていたのだが、立派な人形山車があって、しかもそこで神田囃子を奏でていたので、意外だった。ところが、その場でいただいた「加茂能人形山車」というパンフレットを読んで、よくわかった。そこから転載すると、次のとおりである。

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「加茂能人形山車は、江戸時代『天下祭』に曳き出された姿を忠実に再現した、魚河岸会自慢の山車です。『天下祭』は、神輿の渡御よりも、山車行列が呼び物でした。参加各町は、威信をかけて立派なものを出したといいます。行列は江戸城中に繰り込み、時の将軍の上覧に浴したそうです。天保9年(1838年)には、参加町160、巡行した山車の数45台という記録があります。加茂能人形山車は10番目に曳き出されたとの番付が残っています。城門を通過するために『江戸型山車』は、何層かの可動構造を持つのが特色でした。江戸型山車の多くは明治維新とともに、関東近県に買われていき、年を経て壊れてしまい、残っていたものも、関東大震災・戦火を受けて、殆どが無くなってしまいました。加茂能人形山車も、先代は震災で失われましたが、明治15年頃に作られた10分の1大の精巧な模型が継承されていたことから、それをもとに、昭和30年に復元製作されたのが現在のものです。三層構造は中空で、上段が人形部分、中段は『四方幕』で、下段後部の幕(見返り幕)に囲まれた部分に上・中段がすっぽりと収納できるようになっています。人形は能楽『加茂』の後シテ、別雷神(ワケイカズチノカミ)で、赤頭に唐冠、大飛出の面を付けます。衣装は紺地に赤丸龍模様の狩衣、赤地に稲光電紋模様の半切で、右手に御幣を持っています。四方幕は、四面とも緋羅紗に加茂の競馬の騎馬人形、楓が配され、下段の見送り幕は、加茂の流水に青金二葉葵が、いずれも重厚な刺繍で織り出されています。現代の加茂能人形山車は『水神祭』に曳き出されます。平成2年10月1日には黒牛『とき姫号』に曳かれて、35年ぶりに巡行し、喝采を浴びました。」という。

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 先日、私は飛騨の高山祭に行って、その「動く陽明門」といわれる23基の見事な山車に、ほとほと感心して帰ってきた。江戸・東京のお祭りでも、実はあのような山車が主体だったらしいのである。神田明神のHPによると、明治17年の最盛期には、46本の山車が巡行されたらしい。それが、明治の末期には、電線の敷設や不景気が重なって、山車が曳かれなくなって、各町に備え付けていただけになったらしい。大正時代に入って、神社の神輿が渡御する形へと変遷していったそうだ。なるほど、だから私たちは神田祭といえば、威勢良く大人数が御神輿を担ぐ祭りだと思っていたのかと納得した。また、川越祭り、飯能祭り、佐原祭りなどの関東近辺のお祭りで曳かれる山車のいくつかは、日本橋などから買われてきたものだというが、これでその背景がよくわかった。

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 神田祭 2017年(写 真)



(2017年5月14日記)




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徒然292.人たらしの術


(果物の王様のドリアン)



 世の中は、何かをしようとすると、快く賛成してくれる人はあまり多くなくて、むしろ何やかやと反対したり、ケチをつけたりして足を引っ張る人の方が多い。だから、そういう人に対して、いかに話を付けて、自分の意向を押し通すかが問題である。私は、何につけ不器用なものだから、誰かを説得しようとすると、正攻法しかできない。つまり、まず理屈を考えて、何通りかのシナリオを作り、そのどれかで行けるという見込みを立てたら、後はひたすら何回も関係者のところへ通ってそれを説き、納得してくれるまで押し通すということをやって来た。今から振り返ると、説得される相手としては、随分と迷惑なことだったと思う。

 ほとんどの人は私の作り上げたシナリオのどれかで納得してくれたが、中には最後まで首を縦に振ってくれない人もいた。それでもなお諦めずに通ったら、「よし、私は黒い猫だと思うが、君がそんなに白い猫だと言うなら、白い猫だと思うことにする。」という不思議なことをつぶやき、現に本番では反対しなかったという人もいた。そういうわけで、私は事前に思い付く限りの完璧な準備をして事に臨み、後は押しに押すというものだ。ところが、私とは全く正反対というと言い過ぎかもしれないが、「そんなこと、とても私にはできない」ということを思い付いて、しかもやってしまうというタイプの人がいるので驚いた。

 あるパーティーの席で、知り合いの偉い人に久しぶりに会った。私は、その人が最近、反対派が強硬に反対してきた非常に難しい問題を、鮮やかに解決したことを思い出して「あれは、一体どうやって説得したのですか」と、何の気なしに問うた。すると、

 「あれはですねぇ。人間のちょっとした心理を使ったのですよ。つまりね、人間って、眠気から覚めたばかりのときに、あまり頭を使わないで、素直になるでしょ。それですよ。」という。私は、よく意味が分からずに「というと?」と更に聞くと、こんなことを語っていた。

 「相手のところに言って難しい書類をたくさん渡し、わざと眠たくなるように、お経を読むような平板で抑揚のない話し方をするんですよ。それで、相手はこっくりこっくりと舟を漕ぐようになるでしょ。それを見計らって、突然、大きな声で『ということでございます。よろしいですね。』と言うんですよ。すると、たいていの相手は、目を開けたばかりだから『おお、わかった』と言ってくれますよ。」

 私は驚いて「へぇーっ。そういうものですかねぇ。」と言って、思わずその人の顔を見てしまった。これまで、色々な人の様々な仕事のやり方を見てきて、たいていのことは知っているつもりだったが、まさかそういう幻術のような手を使う人がいるとは、思いもしなかった。これも、その人の人生を渡る上で独自に開発したノウハウ「人たらしの術」なのだろう。でも、私にはとてもできないことだと思った。




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(蟹のチリソース甘辛煮)




(2017年5月10日記)


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徒然291.歳をとってからの怪我

神代曙


駿河桜


小松乙女


 つい2日前に東京の桜の開花宣言が行われて、いよいよ来週には東京の各地で染井吉野の桜が咲き誇る姿が見られそうだ。あちこちで色々な桜の美しい写真を撮りたいと腕がなる。早速であるが冒頭の3つの桜は、本日現在は三分咲きの国立劇場(千代田区隼町)の桜である。上から順に、江戸彼岸の仲間でありピンク色の濃い美しい花を咲かせる「神代曙」、白っぽくて花びらが大き目の「駿河桜」、白とピンク色の絶妙なバランスやその儚げな姿から、いつまでも見ていたくなるような「小松乙女」である。

国立劇場(千代田区隼町)の桜


 話は変わるが、もう60歳代の後半に入ると、同級生の会合では、再就職や孫の話題は終わり、病気や怪我、親の介護などの健康の話が多くなる。先日は怪我の話だった。昔から眼鏡をかけている人が、「最近は眼鏡が合わなくなったせいか、階段を降りるときに足元が見えづらくなってきた。特に最後のステップがあるのを見落として、もう平地に着いたと思って足を出すと地面がなくて、バランスを崩して大きく転んでしまった。」などという。幸い、膝を擦りむいた程度で済んだそうだから良かったものの、危ないところだった。

 すると、別の人が、ニューヨークの街角で、歩道の段差につまずいて、顔から突っ込んでしまったという失敗談をし始めた。普通なら片手を無意識に出して「かばい手」をするところだが、両手はそれぞれ荷物を下げていて、ふさがっていたという。歩道に顔から激突した結果、顔はあちこち傷だらけで、眼鏡は粉々に割れたそうだ。しかもその直後に講演の約束をしていたので、顔中、絆創膏だらけの姿で会場に行って講演をしたというから、大したものだ。


小松乙女


 実は私も、6年ほど前に真冬にテニスをしているときに、怪我をしたことがある。試合中に短く打たれたボールを拾おうと前へダッシュした際、肉離れを起こしたのである。病院で診てもらったら、脚の太腿の裏の下腿三頭筋の上部付け根付近を損傷したそうだ。アキレス腱ではなくて良かったが、それでも6週間ほど、脚全体を包帯でぐるぐる巻きにされて、日常生活に不自由したことがある。

小松乙女


 また別の同級生だが、東京駅でエレベーターに乗っているときに、落ちてきた重たいスーツケースに当たってしまい。大怪我をして、数ヶ月入院した人がいた。帰省途中の女子学生が落としたそうだが、全く運が悪かったとしか言いようがない。とりあえず、彼は治ったものの、以前と比べて全般的に元気がなくなったのが気になる。

小松乙女


 いずれにせよ、歳をとってからの怪我というものは、回復に時間がかかるだけでなく、元のように戻る保証もない。だから、怪我をしないに越したことはない。それにしても、近頃、街を歩くと、歩きながら前を見ずに携帯やスマホの画面に見入っている人が多い。どうかすると、猛スピードで走る自転車に乗っていても、画面から目を離さない輩がいる。これなどは非常に危なくて、事故を起こすのは早晩必定だと思うのだが、本人は実際に起こすまで、全く気が付かないかもしれない。そういう事故に巻き込まれないよう、とりあえず気をつけたい。





(2017年3月26日記)


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徒然290.根津神社つつじ祭り 2016年

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 今年も恒例の根津神社つつじ祭が始まり、やや早めと真っ盛りの2回に分けて撮影をした。あまり早いと、向かって右側の早咲きの品種が咲いているだけで、撮るものがない。ところが、真っ盛りの今は、つつじの山を下から見上げても良し、歩いて小高い丘から見下ろしても良し、つつじを手前に置いて弁柄色の楼門を撮っても良しで、なかなか趣がある。

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 あれあれ、つつじの花に揚羽蝶がとまって花の蜜を吸っている。目の前に来た。慌ててそれを撮ったから、ピントが合って写っているか・・・と思って見てみたら、大丈夫なようだ。それにしても、蝶を撮るのは、昨年秋の向島百花園以来である。

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 それにしても、つつじの花そのものにはあまり個性がないが、鮮やかな色で一斉に咲くのが、何ともいえないほどにインパクトのある風景である。この神社を普段の遊び場としている孫に、この写真を見せたら、「えっ、今こうなっているの?」と驚いていたほどだ。たった1週間でこれだけ一挙に咲いてしまったのだから、驚くのも無理はない。

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 入場するのに、若干の寄進料を収めるが、そのときにいただいた券の裏には、「ご寄進まことに有難うございます。この浄財は全て神域の整備事業に充てさせていただきます。根津神社が宝永3年千駄木の旧地より当所に遷座してから、去る平成18年でちょうど300年になりました。神社ではこれを記念して、重文の社殿と楼門の漆塗修理を始め、順次神域の整備を進めております。今後とも何卒ご支援下さいますようお願い申し上げます。」とあった。

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 確かにこの10年で、社殿と楼門の色は鮮やかになったし、楼門の前には池が作られて、それを跨ぐようにお太鼓橋が作られた。その欄干が弁柄色でなくて緑色なのは少し気になるが、それはともかく、楼門の前の風景がそれなりに整ってきたのは結構なことだ。この楼門は、江戸時代の絵地図にも載っている由緒深いものなので、地域を挙げて末永く守っていきたいものである。

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 八重桜の花びらが、もう散っている。これからは、つつじと藤の季節だ。

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 根津神社つつじ祭り(写 真)




(2016年4月25日記)


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徒然289.熱海梅園

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 もう梅の季節も終わるという頃、まだ熱海梅園で梅が残っているかもしれないと思って行ってみたら、予定より1週間も早く、梅まつりが終わっていた。今年の冬は暖かくて、梅が咲くのが早かったらしい。満開の梅が見られなかったのが残念だったのみならず、途中で雨が降ってきたりもした。それでも、ごく少しだけど梅が残っていたし、中山晋平記念館に入ったり、孫と足湯に行って両足をお湯に浸けて楽しんできた。

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 中山晋平さんというのは、「雨降りお月」、「波浮の港」、「東京音頭」などを作曲した人らしい。その住居を移築したとのこと。典型的な和風建築で、床の間、違い棚、欄間、縁側など、昔の日本家屋を思い出して、とても懐かしい。あれあれ、孫が備え付けのノートに、何か書いている。いたずら描きだと困るなと思って覗くと、自分の名前と「8才」(実は7才なのに、サバを読んでいる)を書いた後に「アタミをだいすきになりました。またきたいです。」などど、まともなことを書いていたので、驚いた。いつの間に、覚えたのだろう。

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 韓国庭園というのがあって、なるほど朝鮮式の建物があり、その脇で朝鮮料理を売っていた。金大中大統領がこの梅園を訪れたのを記念して作られたそうだ。

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 梅園五橋のうち、駐杖橋という橋は、赤く塗られていて優雅な形をしている。その近くの句碑には、「錦浦観潮 夏すでに漲る汐の迅さかな」(武田鶯塘)とあった(漲る=みなぎる)。このほか、

「梅が香にのっと日の出る 山路かな」(松尾芭蕉)

「月光は 流れに砕け 河鹿なく」(波多野光雨)

「梅園や 湯あみの里の 出養生」(石田春雅)

「三界の さとを出あるく 頭巾かな」(斧 三休)

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 梅見の滝というのがあって、11月中旬から12月中旬にかけての紅葉の頃がよさそうだし、6月には蛍鑑賞の夕べがあるという。そうした季節に、また行ってみようと思う。

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 熱海梅園(写 真)





(2016年3月6日記)


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徒然288.浜離宮恩賜公園の春

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 浜離宮に菜の花が満開だと聞き、ぽかぽか陽気に誘われて、行ってみた。いただいたパンフレットによれば「ここは徳川将軍家の庭園で、海水を引き入れた潮入りの池と2つの鴨場を備えた江戸城の出城としての役割を果たしていた。承応3年(1654年)、徳川将軍家の鷹狩場に。4代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が海を埋め立て甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てた。その後、綱重の子の綱豊(家宣)が6代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍の別邸となり『浜御殿』と呼ばれるようになった。以来、歴代将軍によって幾度かの造園と改修工事が行われ、11代将軍家斉の時代にほぼ現在の形となった。明治維新ののちは皇室の離宮となり、名称を『浜離宮』と変えた。関東大震災や戦災によって御茶屋など数々の建造物や樹木が損傷し、往時の面影はなくなったが、昭和20年に東京都に下賜された。」とのこと。

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 この日は、お花畑にたくさんの菜の花が植えられていて、あたり一面が鮮やかな黄色に彩られていた。余りにたくさんあるので、写真にははまりにくい。それでも、汐留の高層ビルを背景に撮ると、それなりの趣きがある。菜の花に近づくと、甘い春の香りがする。

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 さらに入っていくと、紅梅と白梅が咲いていて、とても美しい。梅の花にカメラを向けると、たまたま小さなメジロがやって来た。でも、花を撮るためにシャッター速度を遅くしていたので、それを変えて早くする暇がなかった。だから、やっと1枚写真が撮れたものの、メジロの体がややブレてしまったのは、非常に残念だった。

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 それから進むと、新樋の口山という少し盛り上がっているところがあり、そこからはレインボーブリッジが見えた。水上バス発着場を横に見て歩いていくと、潮入りの池に出る。その岸に沿って行くと、木の橋(お伝い橋)がある。これは中島の御茶屋につながるもので、そこを渡って行った先の中島の御茶屋は、なかなか瀟洒な建物で、昭和58年に再建されたもののようだ。そこからさらに橋を渡ると、松の御茶屋と燕の御茶屋があり、それぞれ平成22年、27年に復元された。

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 ここにも、鴨場がある。私も宮内庁の埼玉や千葉にある鴨場での鴨猟に参加したことがあるが、これがまた非常に面白い伝統的な猟だ。池と繋がっている「引堀」という水で満たされた細長い溝を設けて、そこに野生の鴨をおびき寄せる。そんなところに野生の鴨などが来るはずがないと思うが、それがこの猟の巧妙なところである。アヒルを囮に使い、稗や粟などの雑穀をまく。そうすると野生の鴨も警戒感が薄れるのか、引堀の奥の方まで入って来る。それを引堀の突き当りにあるのぞき穴から見て、十分に鴨が入って来たと思うと、合図がされる。身を隠しつつ待ち受けていた我々が、引堀の土手の両脇に、大きな網(二股に大きく分かれた部分に、絹糸で網をこしらえ、そこに柿渋を塗ったもの)を抱えて進出する。再び合図があるので、一斉に飛び立とうとする鴨をその網をふるって空中で捕まえるという手順である。鴨が多いと、面白いように獲れる。

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 しかしながら最近は、地球温暖化の影響か、こういう東京の近場に飛んで来る野生の鴨の数が減ってきており、それに連れて鴨場で捕獲される鴨が少なくなりつつあるようだ。もっとも、かつてはそうして捕まえた鴨をそのまま食べていたようだが、さすがに最近の自然保護の精神の下では、そのようなかわいそうなことはしない。標識を付けて、すぐに放鳥することになっている。

 そうすると、中には毎年のように何度も捕まる鴨がいるというから、そういう鳥は運が良いのか悪いのか、それとも学習しない性格なのか、あるいは餌にありつけるという意味では実はとても賢いのか・・・何ともいえない。でも、もしその鴨が人間の言葉を理解するなら、是非とも聞いてみたい気がする。





 浜離宮恩賜公園の春(写 真)




(2016年3月5日記)


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徒然287.アイス・カチャン

アイス・カチャン


 アイス・カチャンとは、南国の「かき氷」である。日本の「かき氷」とは、全く別物といってよい。「カチャン」とは、マレー語で「豆」を意味するとおり、かき氷の中に、ピーナツ、小豆その他もろもろの豆が入っているし、それから赤色、緑色、黄色、乳白色の柔らかい丸いもの・・・たぶんヤシのでん粉から作ったものだと思うが・・・そういう派手派手しいものも入っている。さらに、緑色のゼリーやコーヒー・ゼリーのような四角いものまである。その全体に、赤やら緑色のシロップや、コンデンスミルクなどが振りかけられている。最後のトッピングとして、この写真では、アイス・クリームが乗っている。

 初めてマレーシアに行ったとき、レストランのデザートとして見かけ、一体これは何だと思った。興味を持たなくもなかったが、そのあまりに派手な外観に警戒感を催し、こういう国で氷を口にするのは食あたりの原因になるかもしれないと、手が出なかった。ところが、しばらく住んでみると、皆おいしそうに食べているし、食あたりをしたという話を聞いたことがない。では、自分が入ったレイク・クラブのものは信じられるだろうと、それからこの社交クラブのアイス・カチャンを食べだした。

 すると、これがまた絶品で、トッピングにコーンが乗っているし、黒糖が掛けられていたり、中にマンゴーが入っているものもあり、それが美味しいのなんのって、すぐに虜になった。ただ、これは量が多い。急いで食べたりすると、日本のかき氷と同じで、頭の芯が痛くなる。だから、家内と二人で両側からつついて食べ崩すのがちょうど良い。そういうわけで、これが暑い熱帯の国で我々が暮らす楽しみの一つとなった。

 ところで今回、カンボジアでの仕事の帰りにマレーシアに立ち寄ったとき、泊まっているホテルのメニューの中に、そのアイス・カチャンを見つけた。あまりの懐かしさに、胸が一杯になった。このホテルなら、氷を食べても問題がないだろうと思い、ためらいなく注文した。かなり待たされた末、ようやく持ってきてもらったのが、冒頭の写真のアイス・カチャンである。カラフルな外観は、私の記憶のままである。スプーンを使って食べ始めると、誠に美味しい。どんどん食べていくと、現れる豆がピーナッツから小豆に変わったり、緑色のゼリー(チェンドル)が出てきたり、甘いシロップがいつの間にか黒糖味になったりと、その味や外観の千変万化の具合を楽しめた。しかも、ぬるいお湯も一緒に持ってきてくれたので、頭が痛くならなかった。なかなか、気が利いている。

 今回は仕事なので一人で来ざるを得なかったが、できれば、家内と一緒にこれを両側からつついて食べたかった。




(2016年2月11日記)


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