徒然299.青い種なんて初めて

板橋熱帯環境植物館にて


 この真っ青の物体は、実は植物の種である。如何にも人が着色したのではないかと思えるほど鮮やかな青なので、その正体を聞いたら、誰もが驚くだろう。しかも、その植物というのは、私の好きな木だというから、また驚いてしまった。

 というのは、私はシンガポールにはもう何十回も旅したことがあるが、その最初の頃に由緒あるホテルを試そうとして、ラッフルズホテルに泊まってみたことがある。これは、19世紀初頭にシンガポールを創設したイギリス人の名を冠したクラシックなホテルである。今はもう建て替えられて以前の面影はないが、私が泊まった頃は昔ながらのコロニアル風の風情ある建物であった。

 ホテルに着いてみて、いたく気に入ったのは、その正面に植えてあった「旅人の木(学名:Ravenala madagascariensis)」である。全体は、扇を展開したというか、孔雀がその羽を広げたような形をしている。構成する葉は、一本一本が、まるで櫂のような形をしていて実に美しい。(下の写真は、先月たまたま訪問したベトナムのホイアンのものであるが、このベトナム独特のランタンを除いて考えると、まあこういう雰囲気であった。)


ベトナムのホイアンにて


 熱帯の植物の中では、蘭(カトレア、パフィオペディラムなど。次の写真)、睡蓮、ハイビスカス、ブーゲンビリア、ヘリコニア、アンスリウムなど色鮮やかな花が多くていずれも好きだが、花ではなくて植物そのものの姿の美しさとしては、この旅人の木に勝るものはないと思っている。

カトレア


パフィオペディラム


 ちなみに、なぜ旅人の木(Traveler's Palm)というのかと現地の人に聞いたら、(第1説)喉が渇いた旅人が、この木を見つけてその幹に傷を付けてそこから湧き出る水が飲めるからだという人が多かったが、そうではなくて(第2説)この木の扇は東西に広がるので方向がわかるからだという人も僅かながらいた。でも、近接したところにあった数本を私がじっくり観察したところでは、かならずしも扇の方向が一致しているとは思えなかった。だから、第1説が有力だと考えている。

夢の島熱帯植物園にて


 その旅人の木の種がこの青いものというのも、なかなか信じ難い話ではあるが、インターネットを見ると、現にこの種を植えていたのだから、間違いない。それにしても、どこが原産地なのだろうかと思ったら、学名に現れている通り、マダガスカルだった。マダガスカル島はインド大陸とアフリカ大陸に挟まれていた部分が恐竜の絶滅の頃に分離して、今に至っている。だから、動物ではキツネザル、植物ではバオバブの木など、他に類を見ないものが多い。旅人の木も、そういうものだったのだろう。それにしても、青い種とは、変わっている。

夢の島熱帯植物園にて






(2019年1月14日記)


カテゴリ:徒然の記 | 19:19 | - | - | - |
徒然298.土壌汚染対策

土壌汚染対策の講義


 私の出身高校は名古屋にあるのだけど、進学校だったせいか、東京の大学を出てそのまま東京の会社などに勤めて首都圏に在住の人が多い。別に統計があるわけではないが、実感として私のクラスの少なくとも3分の1は東京在住であろうと思う。名古屋に残ったクラスメートも、一番多いのは医者、その他地元企業であるJR東海やトヨタ系列の会社員、それから家業を継いだ人、大学や高校の教員などが目立っている。

 そのせいか、同窓会活動、特に生涯学習に対する意識が高くて、単に寄り集まる会合を開くだけでなく、名古屋と東京の2箇所で、それぞれ毎月の講演会を開いている。講師はもちろん、同窓生の手弁当であり、東大の教授、経験豊かな医者、金融の専門家、中央省庁事務次官、豪華客船の船長、著名な版画家までバラエティに富んでいて、それはもうありとあらゆる話が聞け、こんな有益な会はないと思っている。しかも講演の内容は、後日、同窓会報にも載せられるので助かる。かくして私も、東京と名古屋で1回ずつ、講師として話をさせてもらったことがある。

 というのが前置きであるが、先日は土壌汚染対策の話を聴きにいった。講師の方は、高校の期を聞いてみると、私より15年も若かった。いや、講師が若いというより、私の方が歳をとっているのかもしれない。現に、当日の20人余りの聴衆の中では、私が最年長だったようだ。

 本日の講師は、原子力工学を専攻した後、大手のゼネコンに長年勤めて、途中から土壌汚染対策の会社の設立に関わって、それ以来の専門家らしい。日本で、土壌汚染対策法が成立したのは平成14年であり、爾来、この種の専門処理会社ができて育っていったようだ。実は、私は、たまたまこの法律が生まれるときに関わったことがあるので、その後この法律がどのように世の中の役に立ち、育てられてきているかを知りたくて、この講演会に臨んだというわけである。ちょうど、かつての教え子が、どういう風に活躍しているのか知りたいというような気持ちである。

 講師が、分かりやすく説明するという配慮であろうが、いくつか実例を挙げていた。その一つの例として、大阪の国有地払下げに際してゴミが見つかったために値引きを余儀なくされた案件についての説明には驚いた。なぜかというと、その土地の来歴に関する徹底的なデータベースを持っていて、それでゴミの由来を完璧に追跡していたからである。

 例えば、現在の衛星写真を元に、当該土地にゴミが埋められていた場所を特定して、そこを黄色い線で囲う。そのすぐ北には隣接するように道路が走っていて、その外側には住宅などが密集している。南側もそういう住宅密集地だ。次に画面が変わって、今から20年前のその場所の航空写真を示す。道路はまだなかったように思う。黄色い一画の南の方にはポツポツと建物があるが、その北には、広大な田圃が広がっている。更に40年前の航空写真には、黄色い一角は川のような水路の一部となっている。北は田圃のままで、南の方にも建物はほとんどない。もっと遡ると昭和30年代の地図がでてきて、その水路は、その辺り一帯の田圃を大きく四角に取り囲む運河の南の一片だったことが見てとれる。

(注)以上の数字は、単に模式的に示したものに過ぎず、正確なものではない。

 また別の文献から、この辺りは洪水がよく起こったので、この運河は田圃を守るために建設された。ところが、やがて暴れ川の治水が功を奏したことから不要になった。そこで次第に埋め立てられていき、南の一辺つまり黄色い一角があるところが運河の一部として最後まで残っていたが、それもやがて埋め立てられたということがわかった。要するに問題のゴミは、その埋め立てがゴミによって行われたから、今に至るまでそのまま残存していたのであった。それが危険なものかどうかは、ゴミのサンプルを取って分析すればわかるという。

 ついでに言えば、日本の土壌汚染の種類には、重金属、農薬、その他化学物質、放射能があるとのこと。これらは、その土地の来歴を地図(衛星写真、航空写真を含む)と文献で追跡すれば、かなりのことがわかるという。しかも、そのデータベース化がほぼ終わっているらしい。なるほど、高度情報化社会らしくなってきた。これからは、土地を買う前に、こういう会社に相談して、その土地の来歴を徹底的に調べておくべきだと思ったし、現にそういう受注案件が増えているという。

 土壌汚染の場合の対策は、要はその汚染土を剥ぎ取って、そのために凹んだ所に新しい土を運び込んで入れ替えるということらしい。最後に、東京電力の福島第一原子力発電所の事故で飛び散った放射能を帯びた汚染物質の処理について話をされた。セシウムなどのこうした汚染物質は土地の表層に溜まるので、汚染が酷いところではそれを剥ぎ取って一箇所に集める。そうでもないところではお好み焼きをひっくり返すように、土地の上の汚染された土と内部の汚染されていない土との「天地返し」をするということをやっているという。

 説明を聴いて、私は疑問に思ったことを一つ質問した。「放射能以外の普通の土壌汚染の場合、土壌汚染対策で剥ぎ取った表層の土は、そのあと、どのように処理されるのですか。」てっきり、専用の処理施設で無害化された後、人里離れた産業廃棄物処理施設で永遠の眠りについているものと思い込んでいたが、そういう施設のことなど全く聞いたことがないと気がついたので、質問したわけである。ところが、これに対して返ってきた答えには驚いた。

 何と、セメントの原料にしてしまうのである。確かに、セメント協会のHPによれば「 セメント1tの製造に必要な原料は、おおよそ石灰石1,100kg、粘土200kg、その他原料100〜200kgです。セメントの主要成分(CaO、Al2O3、SiO2、Fe2O3)を含む物質は、原料として使用可能なことから、製鉄所からの副産物である高炉スラグ、石炭火力発電所の石炭灰や、各種の廃棄物の有効利用を進めており、その量は約2,900万t/年にも及びます。これら多種多様な副産物、廃棄物を使いこなしながら、安定した品質のセメントを生産することはやさしい技術ではありません。設備の改善、運転管理技術の向上を中心にたゆまぬ努力を続けています。」とある。汚染土は、このうちの「粘土」になるという。

 そうすると、製品として出来あがったセメントも、原料と同様に、これまた汚染されているのではないかと思うところである。しかし講師の説明は、セメント原料に占める粘土の割合は重量換算で15%にとどまるし、その全部が汚染物質ではないのはもちろんであるから、要は、希釈されてしまうという意味で無害なものとなるというのが、本当のところらしい。もちろん、出来上がったセメントの品質検査をして、無害なものかどうかを確認しているそうだ。いずれにせよ、建物のコンクリートは我々が日々目にするものであるけれども、その一部に、まさかそうした汚染土が堂々と使われているなどということは、およそ考えもつかなかった。


【後日談】

 12月中旬、発売されたばかりの週間新潮(12月20日号)のページをめくっていると、「セメントが日本を救う」という一般社団法人セメント協会の広告があった。その中に張られていたネット検索をたどっていくと、村岡嗣政 山口県知事と山本謙セメント協会副会長(宇部興産株式会社 代表取締役社長)との間で、次のような対談があった。

 村岡知事「・・・直近の国の調査では、平成27年度に 発生した廃棄物等が5億6千万トンあり、そのうち45%の2億5千万トンが循環利用されているということです。その循環利用量の約3分の1をセメント産業と、製紙産業 、鉄鋼業が担っていますが、例えば製紙業では紙屑を再利用する、鉄鋼業では金属屑を再資源化するのに対し、セメント産業は、燃え殻とか、鉱滓とか、汚泥とか多様な廃棄物を再資源化することができる。セメント産業は循環型社会を形成していくうえで不可欠な産業であると言って良いでしょう。・・・

 山本副会長「・・・セメント産業は今や資源循環型社会を根本から支えている産業だと自負しています。セメントの場合は廃棄物の利用法が二つあります。 一つは焼却灰のようなものを、副原料、すなわち通常使う粘土とか珪石の代わりにできます。もう一つは、摂氏1450度もの高い温度で焼成しますので、その熱源の一部として廃タイヤや廃プラスチックなどを使う場合があります。さらに大きな特徴はセメントを作るときに、二次廃棄物をほとんど出さないことです。ここがほかの産業と違うところです。全国のセメント工場で年間約2800万トンの廃棄物、副産物の受け入れをしており、現在1トンのセメントを作るのに471キログラムの廃棄物を使っています。環境省の統計では、 廃棄物の最終処分場の余命があと約16年となっていますが、もしセメント工場が廃棄物の受け入れをやめてしまったら、セメント協会の試算では10年くらい寿命が縮まり、処分場の余命はあと5年か6年です。我々の貢献度は大きいと思っています。・・・

 知事がこんな専門的で細かいことまでご存知なのだろうかと思わないわけでもなかったが、元々ご関心があったのか、あるいは地元の有力な立地産業のことなので折に触れてお聞きになっていたのか、それとも、セメント協会の脚色が強すぎたのかもしれない。いずれにせよ、なるほどそういうものなのかと、セメント産業に関する認識を新たにした。






(2018年12月11日記)


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徒然297.「bed」の意味

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1. 私は、今年の夏は、東南アジアに滞在している。友達と会い、ドリアンと美味しい中華料理を味わい、少し贅沢なホテル・ライフを楽しむためである。現地でタクシーに乗ってよもやま話をしていたら、私のことを「日本人か?」と聞くので、「そうだ。」と答えると、笑いながらこんな話をしてくれた。シンガポールのチャンギ空港から市内に向かうタクシーの運転手仲間の間で、近頃こういう小話が交わされているそうだ。

 あるとき、妙齢の日本人女性が、空港からタクシーに乗り込んだ。そして、いきなり曰く「I want to go to bed.」

 その運転手は、心底たまげて「be...bed?」と聞き返したそうだ。するとその女性は、「Yeah! I wanna bed.」という。運転手は、まさかと思ってバックミラー越しにその女性を見ると、多少の怒りが加わってか、妙に色っぽく見えた。

 運転手は、あるいは本当かと思うようにもなったが、やはりまさかと思って、「Which hotel are you going?」と聞くと、ますますご機嫌を損ねたようで、「I said “bed”.」と言われてしまった。

 いや、これは困ったと思った運転手は、地図はあるかと尋ねたら、ハンドバックの中を探し始めた。しばらく経って、クシャクシャになった紙を出してきた。それにはシンガポールの地図が描かれていて、「Bedok(ベドック)」に、赤い丸が打たれていたそうな。


 ちなみに、ベドックは、チャンギ空港からほど近いところで、大型ショッピングモールや駐在員用のコンドミニアムが多くあるベッドタウンである。元は、水源地があったところだ。全く知らない人のこととはいえ、同胞の話であるから、顔が赤くなる思いであるが、英語の発音には気をつける必要があるという一例である。

2. 話は変わるが、昔々、やはり「bed」の話で、赤面したことがある。職場関係の研修所で、夜間に泊まり込んで、英語の授業を受ける機会に恵まれた。受講生は男女を交えて10人ほどで、講師はやや皮肉屋のイギリス人である。

 その晩の授業が終わり、まず、男性の受講生が立ち上がり、礼を言って教室から出ようとした。次に女性の受講生も同じようにしたので、講師が、「これからどうするの?」と気楽に尋ねた。

するとその女性は、「I’m going to bed. 」と答えたので、私は「ああ、教科書通り言ってしまった。」と、恥ずかしくなった。講師の方を見ると、これまたびっくりしたようで、固まっている。後から聞いてみると、やはり「この二人は出来ているのか」と思ったそうだ。

 確かに我々が中学生の頃に習った英語の教科書には、「I’m going to bed. 」というのは、単に「これから部屋で寝ます。」という程度の意味しかなかった。しかしその表現が確立してから時が経ち、話すシチュエーションによっては、そんな単純な意味ではなくなったのである。

3. また話は変わるが、同じようなことが、私が高校時代に習った「土砂降りの雨」を表す「It rains cats and dogs.」という表現にも見受けられる。その時は、「猫や犬がなんで土砂降りと関係あるんだ?」と思わないわけでもなかったが、何しろ教科書にも載っている表現だからと丸暗記した。

 ところが、今時、アメリカ人にこんな表現を言っても、ポカンとするばかりである。それもそのはずで、これはアメリカ開拓時代の言い方なのである。当時のアメリカでは、屋根は粗末な板敷で、天井には家畜の餌の藁が置いてあり、しばしばそこに犬や猫が隠れていた。それが、大雨が降って屋根板に激しく打ち付けると、びっくりして天井から落ちて来たそうな。だから、こういう表現が出来たそうだ。

 そういうわけで、言葉というのは、そのときの時代背景や人々の感覚によって、いかようにでも変化していくものである。だから私も、「聞くのは一瞬の恥、聞かぬは一生の恥」という精神で、これからも英語に立ち向かっていきたい。





(2018年8月22日記)


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徒然296.保活の苦労

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 就職しようとするときは「就活」、それが終わって良い縁に恵まれて結婚しようとするときは「婚活」、結婚したのになかなか赤ちゃんに恵まれないときは「妊活」、無事に生まれて子供を育てるときに直面するのが預かってくれる保育園探しで、これを「保活」というそうだ。それぞれが人生の一大イベントであり、どのハードルも上手くいくように願いたいところだが、そう思う通りにはいかないのが人生の常である。私の周囲でも、「妊活」に励んだがとうとう成功しなかったとか、あるいは「保活」には本当に苦労したという話を聞く。

 「妊活」は、所詮はコウノトリの気まぐれなので、努力しても功を奏しなかったら、私などは養子で良いと考える方だ。外国とりわけアメリカなどではそれがごく普通の考え方なのだけれど、日本では養子という選択肢を選ぶ人は極めて限られていて、むしろ夫婦2人だけの生活を選ぶカップルが圧倒的に多いと思う。なぜなのだろう。確かに子育ては大変だが、同時に夫婦揃ってやり甲斐があるし、自ら人間的にも成長するのにと、私などは残念に思うところである。まあしかし、そのカップルの人生の選択だから、外野からどうこう言うべきものではない。

 「保活」は、女性の社会進出に伴って、この十数年、特に深刻になってきた問題である。昔のようにおじいちゃん、おばあちゃん、他の兄弟、果ては未婚のおじさん、おばさんなどが同居していると、子供の世話は、誰か手の空いた人が見てくれた。ところが私が社会に出た頃から、そうした大家族主義が崩れて核家族化が進み、夫婦2人だけが子供の面倒をみる体制が一般化した。奥さんが専業主婦ならそれで良かったが、立派な仕事をしていると、頼りにするのは遠くにいるおじいちゃん、おばあちゃんか、あるいは近くの保育園か、ということになる。

 我々夫婦の場合は、娘一家がある日突然、同じマンションに越してきて、当時4歳になったばかりの初孫ちゃんの面倒をみる羽目になった。我々夫婦は体力的には疲れたものの、代わりに初孫ちゃんから元気をもらい、その成長を日々見守る幸せを感じることができた。しかし、こういう言わば恵まれたケースは例外的で、一般の方は近くの保育園だけが頼みの綱なのだろうと思う。それも、たった一本の綱なのである。ところが、それが希望者殺到で、なかなか入れないので、今や大きな社会問題となっている。

 最近、その「保活」で、とても興味深い話を聞いた。ある専門職の女性で、3年前に研究職の夫を東京に残して、5歳と0歳の子供2人を連れて関西に赴任したそうだ。そのときは産休明けなので、保育園に入る優先順位が高かったことから、何も苦労することなく、近くの公立保育園にすんなりと入れた。ところが昨年秋になって、再び東京に転勤で戻ってくることになった。人口が伸びている東京は、ただでさえ保育園の激戦区であるし、それだけでなく前回あった産休明けという錦の御旗もなくなってしまった。

 しかし、後顧の憂いなく自分の仕事に専念したい。そこで、関西にいながら、東京23区と周辺都市の情報を全部取り寄せて、待機児童の数、既存の保育園とこれからできる保育園、それらの評判、借りたい賃貸住宅、勤務先への通勤などを徹底的に調べたそうだ。その結果、白羽の矢を立てたのが、国分寺市だったという。それで、国分寺市役所を訪れて、係の人からどんな細かいことまでも徹頭徹尾聞き出し、その一方でストップウオッチを片手に借りるつもりの賃貸住宅と保育園の間を歩いてみて何分かかるか、途中危ないところはないかなど、あらゆることをチェックしたそうだ。

 それで、東京都への転勤が決まるや否や、その賃貸住宅を抑え、市役所への手続を終えて、無事に保育園が決まったという。いや、それはすごい調査能力と行動力だ。日頃から仕事が出来る人であることは聞いていたが、子育てにも、その類い稀な能力を遺憾なく発揮しているらしい。つくづく感心してしまった。





(2018年4月25日記)


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徒然295.六義園のお正月

六義園の池


 六義園は、五代将軍徳川綱吉から賜った駒込の地に、柳澤吉保がその造詣を存分に生かして造った典型的な大名庭園である。本日は、天気はよいものの寒風が吹き抜ける中、朝10時半から開演の目黒流貫井囃子保存会の景気の良いお囃子演奏と、小気味よい獅子舞を見物してきた。後半、獅子舞が客席を回って観客の頭を「がぶり」とやっているとき、お母さんに抱かれた1歳くらいの男の子が、近づいてきたお獅子の頭にまさにかぶりつかれようとしたその瞬間、見事なパンチでこれを撃退したので、皆からやんやの喝采を浴びていた。笑ってしまうが、小さくてもさすが男の子である。将来、有望だ。

目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞



目黒流貫井囃子保存会のお囃子と獅子舞







(2018年1月3日記)


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徒然294.芸妓舞妓さんカレンダー

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 師走も半ばになった頃、郵便局から細長い小荷物が届けられた。送り主を見ると、大学時代の友人Aくんだ。あれあれ、本当に久しぶりだなという気がした。添付されている手紙を読むと「五年ぶりに弊社カレンダーを作成いたしましたので、ここにお届けします。一年間お手近に掛けて頂ければ幸甚でございます。」とある。開けてみると、艶然とした笑みをたたえた芸妓さんと、ぽっくりを履いてすっくりと立つ可愛い舞妓さんたちのカレンダーである。

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 ああ、彼の会社も、苦節5年でやっと復活したかと、嬉しくなった。実は彼の会社は、長年、年末になるとこうして舞妓さんのカレンダーを送ってくるのを常としていて、私だけでなく、家内もそれを楽しみにしていた。それが5年前にばったりと止まったら、家内とともに「どうしたのかねぇ」と、気を揉んでいたのである。

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 というのは、ただこのカレンダー・シリーズを気に入っていただけではないからである。ある年、大学時代の同級生とともに、京都で、「卒業後○十周年記念」と名打って、夫婦で参加する大々的な同窓会が開催されたことがある。その行事が終わった後、何組かの有志で、祇園のお茶屋での二次会を開いた。その時にきてくれた舞妓さんを見て家内が、その会社の「芸妓舞妓さんカレンダー」に出てくる舞妓さんだと気がついた。全くの偶然で、その舞妓さんは、「あれ、Aさんのお友達どすか、いつもいつもご贔屓にしてもろうておますぇ。」などと言う。何のことはない、Aくんは、自分が通うお茶屋の舞妓さんたちに頼んで、このカレンダーを作っていたというわけである。まあ、何という優雅な人生だろう。それが、この度再び復活をしたというわけだ。心から喜びたい・・・と同時に、いささか・・・いや・・・大変うらやましい気がするのである。

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(2017年12月15日記)


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徒然293.神田祭 2017年

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 私の家は根津権現から歩いて数分のところにある。湯島天神も地下鉄で一駅行ったところだし、そこから更に少し歩くと神田明神に着く。このうち、根津権現は、秋祭りもあるが、それより毎年5月の躑躅祭りが有名である。その季節になると、境内の片面が、紫、赤、白などの原色で埋め尽くされる。見事だ。湯島天神は、何といっても受験の神様として、そのシーズンになるとお参りする受験生や両親で境内が一杯になるし、そのほか、梅まつりという催しも、なかなか見ごたえがある。

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 神田明神は、2年に1回、斎行される神田祭(神幸祭)は、いつもすごく賑わっているなと思う程度で、全体をじっくり見たことがない。それもそのはずで、1週間にわたって行われるし、神幸祭の巡行は、丸1日をかけて神田、日本橋、大手町、丸の内、秋葉原という広い地域を回るし、御神輿の宮入は、1日半もかけて200基が行うという、大変なスケールのお祭りだからだ。それでも今年は、少しは写真を撮ろうと思っていたが、残念ながら巡行が本番の土曜日は、1日中、雨が降り続いて寒かったこともあり、行く気がなくなってしまった。参加していた人たちは、雨に濡れてさぞかし大変だったろうと思う。ただ、翌日曜日は晴れたので、お昼を食べに出たついでに、少しだけ写真を撮りに行った。

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 神田明神正面の鳥居の脇にいて、これから宮入をする御神輿を撮り、更に境内の中に入って行って、御神輿を中心に人また人で溢れかえる境内の様子を見物してきた。神田祭といえば、御神輿ばかりと思っていたのだが、立派な人形山車があって、しかもそこで神田囃子を奏でていたので、意外だった。ところが、その場でいただいた「加茂能人形山車」というパンフレットを読んで、よくわかった。そこから転載すると、次のとおりである。

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「加茂能人形山車は、江戸時代『天下祭』に曳き出された姿を忠実に再現した、魚河岸会自慢の山車です。『天下祭』は、神輿の渡御よりも、山車行列が呼び物でした。参加各町は、威信をかけて立派なものを出したといいます。行列は江戸城中に繰り込み、時の将軍の上覧に浴したそうです。天保9年(1838年)には、参加町160、巡行した山車の数45台という記録があります。加茂能人形山車は10番目に曳き出されたとの番付が残っています。城門を通過するために『江戸型山車』は、何層かの可動構造を持つのが特色でした。江戸型山車の多くは明治維新とともに、関東近県に買われていき、年を経て壊れてしまい、残っていたものも、関東大震災・戦火を受けて、殆どが無くなってしまいました。加茂能人形山車も、先代は震災で失われましたが、明治15年頃に作られた10分の1大の精巧な模型が継承されていたことから、それをもとに、昭和30年に復元製作されたのが現在のものです。三層構造は中空で、上段が人形部分、中段は『四方幕』で、下段後部の幕(見返り幕)に囲まれた部分に上・中段がすっぽりと収納できるようになっています。人形は能楽『加茂』の後シテ、別雷神(ワケイカズチノカミ)で、赤頭に唐冠、大飛出の面を付けます。衣装は紺地に赤丸龍模様の狩衣、赤地に稲光電紋模様の半切で、右手に御幣を持っています。四方幕は、四面とも緋羅紗に加茂の競馬の騎馬人形、楓が配され、下段の見送り幕は、加茂の流水に青金二葉葵が、いずれも重厚な刺繍で織り出されています。現代の加茂能人形山車は『水神祭』に曳き出されます。平成2年10月1日には黒牛『とき姫号』に曳かれて、35年ぶりに巡行し、喝采を浴びました。」という。

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 先日、私は飛騨の高山祭に行って、その「動く陽明門」といわれる23基の見事な山車に、ほとほと感心して帰ってきた。江戸・東京のお祭りでも、実はあのような山車が主体だったらしいのである。神田明神のHPによると、明治17年の最盛期には、46本の山車が巡行されたらしい。それが、明治の末期には、電線の敷設や不景気が重なって、山車が曳かれなくなって、各町に備え付けていただけになったらしい。大正時代に入って、神社の神輿が渡御する形へと変遷していったそうだ。なるほど、だから私たちは神田祭といえば、威勢良く大人数が御神輿を担ぐ祭りだと思っていたのかと納得した。また、川越祭り、飯能祭り、佐原祭りなどの関東近辺のお祭りで曳かれる山車のいくつかは、日本橋などから買われてきたものだというが、これでその背景がよくわかった。

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 神田祭 2017年(写 真)



(2017年5月14日記)




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徒然292.人たらしの術


(果物の王様のドリアン)



 世の中は、何かをしようとすると、快く賛成してくれる人はあまり多くなくて、むしろ何やかやと反対したり、ケチをつけたりして足を引っ張る人の方が多い。だから、そういう人に対して、いかに話を付けて、自分の意向を押し通すかが問題である。私は、何につけ不器用なものだから、誰かを説得しようとすると、正攻法しかできない。つまり、まず理屈を考えて、何通りかのシナリオを作り、そのどれかで行けるという見込みを立てたら、後はひたすら何回も関係者のところへ通ってそれを説き、納得してくれるまで押し通すということをやって来た。今から振り返ると、説得される相手としては、随分と迷惑なことだったと思う。

 ほとんどの人は私の作り上げたシナリオのどれかで納得してくれたが、中には最後まで首を縦に振ってくれない人もいた。それでもなお諦めずに通ったら、「よし、私は黒い猫だと思うが、君がそんなに白い猫だと言うなら、白い猫だと思うことにする。」という不思議なことをつぶやき、現に本番では反対しなかったという人もいた。そういうわけで、私は事前に思い付く限りの完璧な準備をして事に臨み、後は押しに押すというものだ。ところが、私とは全く正反対というと言い過ぎかもしれないが、「そんなこと、とても私にはできない」ということを思い付いて、しかもやってしまうというタイプの人がいるので驚いた。

 あるパーティーの席で、知り合いの偉い人に久しぶりに会った。私は、その人が最近、反対派が強硬に反対してきた非常に難しい問題を、鮮やかに解決したことを思い出して「あれは、一体どうやって説得したのですか」と、何の気なしに問うた。すると、

 「あれはですねぇ。人間のちょっとした心理を使ったのですよ。つまりね、人間って、眠気から覚めたばかりのときに、あまり頭を使わないで、素直になるでしょ。それですよ。」という。私は、よく意味が分からずに「というと?」と更に聞くと、こんなことを語っていた。

 「相手のところに言って難しい書類をたくさん渡し、わざと眠たくなるように、お経を読むような平板で抑揚のない話し方をするんですよ。それで、相手はこっくりこっくりと舟を漕ぐようになるでしょ。それを見計らって、突然、大きな声で『ということでございます。よろしいですね。』と言うんですよ。すると、たいていの相手は、目を開けたばかりだから『おお、わかった』と言ってくれますよ。」

 私は驚いて「へぇーっ。そういうものですかねぇ。」と言って、思わずその人の顔を見てしまった。これまで、色々な人の様々な仕事のやり方を見てきて、たいていのことは知っているつもりだったが、まさかそういう幻術のような手を使う人がいるとは、思いもしなかった。これも、その人の人生を渡る上で独自に開発したノウハウ「人たらしの術」なのだろう。でも、私にはとてもできないことだと思った。




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(蟹のチリソース甘辛煮)




(2017年5月10日記)


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徒然291.歳をとってからの怪我

神代曙


駿河桜


小松乙女


 つい2日前に東京の桜の開花宣言が行われて、いよいよ来週には東京の各地で染井吉野の桜が咲き誇る姿が見られそうだ。あちこちで色々な桜の美しい写真を撮りたいと腕がなる。早速であるが冒頭の3つの桜は、本日現在は三分咲きの国立劇場(千代田区隼町)の桜である。上から順に、江戸彼岸の仲間でありピンク色の濃い美しい花を咲かせる「神代曙」、白っぽくて花びらが大き目の「駿河桜」、白とピンク色の絶妙なバランスやその儚げな姿から、いつまでも見ていたくなるような「小松乙女」である。

国立劇場(千代田区隼町)の桜


 話は変わるが、もう60歳代の後半に入ると、同級生の会合では、再就職や孫の話題は終わり、病気や怪我、親の介護などの健康の話が多くなる。先日は怪我の話だった。昔から眼鏡をかけている人が、「最近は眼鏡が合わなくなったせいか、階段を降りるときに足元が見えづらくなってきた。特に最後のステップがあるのを見落として、もう平地に着いたと思って足を出すと地面がなくて、バランスを崩して大きく転んでしまった。」などという。幸い、膝を擦りむいた程度で済んだそうだから良かったものの、危ないところだった。

 すると、別の人が、ニューヨークの街角で、歩道の段差につまずいて、顔から突っ込んでしまったという失敗談をし始めた。普通なら片手を無意識に出して「かばい手」をするところだが、両手はそれぞれ荷物を下げていて、ふさがっていたという。歩道に顔から激突した結果、顔はあちこち傷だらけで、眼鏡は粉々に割れたそうだ。しかもその直後に講演の約束をしていたので、顔中、絆創膏だらけの姿で会場に行って講演をしたというから、大したものだ。


小松乙女


 実は私も、6年ほど前に真冬にテニスをしているときに、怪我をしたことがある。試合中に短く打たれたボールを拾おうと前へダッシュした際、肉離れを起こしたのである。病院で診てもらったら、脚の太腿の裏の下腿三頭筋の上部付け根付近を損傷したそうだ。アキレス腱ではなくて良かったが、それでも6週間ほど、脚全体を包帯でぐるぐる巻きにされて、日常生活に不自由したことがある。

小松乙女


 また別の同級生だが、東京駅でエレベーターに乗っているときに、落ちてきた重たいスーツケースに当たってしまい。大怪我をして、数ヶ月入院した人がいた。帰省途中の女子学生が落としたそうだが、全く運が悪かったとしか言いようがない。とりあえず、彼は治ったものの、以前と比べて全般的に元気がなくなったのが気になる。

小松乙女


 いずれにせよ、歳をとってからの怪我というものは、回復に時間がかかるだけでなく、元のように戻る保証もない。だから、怪我をしないに越したことはない。それにしても、近頃、街を歩くと、歩きながら前を見ずに携帯やスマホの画面に見入っている人が多い。どうかすると、猛スピードで走る自転車に乗っていても、画面から目を離さない輩がいる。これなどは非常に危なくて、事故を起こすのは早晩必定だと思うのだが、本人は実際に起こすまで、全く気が付かないかもしれない。そういう事故に巻き込まれないよう、とりあえず気をつけたい。





(2017年3月26日記)


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徒然290.根津神社つつじ祭り 2016年

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 今年も恒例の根津神社つつじ祭が始まり、やや早めと真っ盛りの2回に分けて撮影をした。あまり早いと、向かって右側の早咲きの品種が咲いているだけで、撮るものがない。ところが、真っ盛りの今は、つつじの山を下から見上げても良し、歩いて小高い丘から見下ろしても良し、つつじを手前に置いて弁柄色の楼門を撮っても良しで、なかなか趣がある。

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 あれあれ、つつじの花に揚羽蝶がとまって花の蜜を吸っている。目の前に来た。慌ててそれを撮ったから、ピントが合って写っているか・・・と思って見てみたら、大丈夫なようだ。それにしても、蝶を撮るのは、昨年秋の向島百花園以来である。

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 それにしても、つつじの花そのものにはあまり個性がないが、鮮やかな色で一斉に咲くのが、何ともいえないほどにインパクトのある風景である。この神社を普段の遊び場としている孫に、この写真を見せたら、「えっ、今こうなっているの?」と驚いていたほどだ。たった1週間でこれだけ一挙に咲いてしまったのだから、驚くのも無理はない。

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 入場するのに、若干の寄進料を収めるが、そのときにいただいた券の裏には、「ご寄進まことに有難うございます。この浄財は全て神域の整備事業に充てさせていただきます。根津神社が宝永3年千駄木の旧地より当所に遷座してから、去る平成18年でちょうど300年になりました。神社ではこれを記念して、重文の社殿と楼門の漆塗修理を始め、順次神域の整備を進めております。今後とも何卒ご支援下さいますようお願い申し上げます。」とあった。

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 確かにこの10年で、社殿と楼門の色は鮮やかになったし、楼門の前には池が作られて、それを跨ぐようにお太鼓橋が作られた。その欄干が弁柄色でなくて緑色なのは少し気になるが、それはともかく、楼門の前の風景がそれなりに整ってきたのは結構なことだ。この楼門は、江戸時代の絵地図にも載っている由緒深いものなので、地域を挙げて末永く守っていきたいものである。

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 八重桜の花びらが、もう散っている。これからは、つつじと藤の季節だ。

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 根津神社つつじ祭り(写 真)




(2016年4月25日記)


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