浜松への旅

浜松城


 私は、東海道新幹線に乗って通過するたびに気になっていたのが、浜松駅前にある特徴的な高層ビルである。一見して200mを超えるレンガ色のハーモニカのような形のビルで、同じ静岡県でも県庁所在地である静岡駅には、こんなに高い建物はない。これは、いったい何だろうと思っていたからである。ところがこのほど、機会があって、浜松を訪れることができた。いつものように、あまり時間がない忙しい旅なので、楽器博物館、浜松城、ジオラマパーク、そしてこの高層ビル(アクトシティ浜松)を見てきた。このほか時間があれば、井伊家の菩提寺である龍潭寺と、地元の自動車メーカーであるスズキ歴史館にも行きたかったのだが、それぞれ、車で片道45分もかかるとか、事前の予約が必要とか言われて断念した。

楽器博物館


 まずは、楽器博物館に行った。イヤホンを貸してくれて、その楽器の前に行って掲示してある番号を押すと、音楽や解説が聞こえてくるという仕組みだ。解説はもちろん有り難いが、それ以上に、目の前の楽器からはこんな音が聞こえてくるのかと納得できるのがよい。だいたいが見かけ通りの音だったが、中にはその武骨な外観とは想像ができないほどに繊細な音が聞こえてきて、面白い。係りの人には、全部を聴いて回ると、2時間かかると言われた。

楽器博物館 アジアや中近東の民族楽器


楽器博物館 バリ島のガムラン


楽器博物館 タイの楽器


 1階には、アジアや中近東の民族楽器が展示してある。入り口から入って正面にあるのは、ジャワとバリ島のガムラン音楽の楽器である。打楽器だが、お鍋そのもの並んでいるような楽器もある。また、私が先年バリ島に行ったときに観た「バロン劇」に出てくる善の神バロンのようなものまであった。まさかこれは楽器ではないだろう・・・日本で言えば、お獅子のようなものである。そうかと思えば、近くに仏像と象が表に彫られた不思議な楽器があった。これはタイのものかと思ったら、やはりそうだった。更に先へと進む。おやこれは、古代中国の曾侯乙墓から出てきた「編鐘」のレプリカだ。昔、東京国立博物館で開催された特別展「曾侯乙墓」で見たことがある。大中小の数多くの青銅製の鐘が、青銅の支えがある3段の木枠に並べられた楽器だ。このように、どうも私は、音楽や楽器よりもむしろ民族文化に、ついつい興味が向いてしまう。

楽器博物館 編鐘


楽器博物館 楽器の東西伝播ルート


 地下1階に降りると、まずは中南米やアフリカの楽器が置いてある。弦楽器の伝播の地図がある。中近東のペルシャで生まれた「バルバット(?)」が、西へ渡って西アジアの「ウード」になり更に西の欧州の「リード」になった。そのバルバットは、東へ渡って中国の「ビバ」に、それが日本に伝来して「琵琶」になったそうな。平家物語の引き語る琵琶も、シルクロードの伝来物だったとは知らなかった。 それから、アフリカの楽器もある。これらは、音色はともかく太鼓を叩く姿などその素朴な生活を表す造形が面白い。また、木琴のような打楽器の下を覗くと、色々な大きさの瓢箪が付けられていて、共鳴器のように使っていた。

楽器博物館 アフリカ


楽器博物館 アフリカ


楽器博物館 エチオピア


 地下1階の奥の部分には、とりわけピアノの歴史がよくわかるようになっていて、その原型のチェンバロから、これに音の強弱を付けられるようにしたピアノの先祖に当たる「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」に始まり、現代のピアノに至るまで技術的改良が加えられてきた経緯が良く分かる。感心したのは、アクション(鍵を押し下げるとハンマーが連動して弦を叩く仕組み)の改良の歴史で、アップライト型ピアノの時代とグランド型ピアノの時代への移行と、アクションがウイーン式、フランス式、最後にイギリス式へ進化していく過程を、実際にその模型で知ることができる。音を出してみて、よくわかった。

楽器博物館 ピアノの原型


 こうしてピアノはもちろん、そのほか管楽器も含めて、どうしてこれほどまでに体系的に揃っているのかと思ったら、同博物館のHPによると、「楽器収集家であったアメリカ人、ロバート・ローゼンバウム氏のコレクションが中心で、18〜19世紀の管楽器がそろっています。T.スティンズビーSr.作のイギリスのオーボエや,プロイセン王国フリードリヒ大王ゆかりのフライヤー作クヴァンツ型フルート、フランス ブルボン王朝の王室御用達楽器製作家F.E.ブランシェ2世作のチェンバロなど,世界的名器も含まれています。ウィーンのワルターやシュトライヒャー、ロンドンのブロードウッドなど名工の手による19世紀のピアノ(フォルテピアノ)は圧巻です。A.サックス自身の作のサクソフォーン、19世紀イギリス製のミンストレル・バンジョーも世界的に貴重なコレクションです」とのこと。なるほどと納得した。

浜松城天守閣


 次に浜松城に向かう。当時の遺構は野面積みの石垣だけで、天守閣そのものは戦後のコンクリート造りであるから文化財としての価値はない。しかし、なんと言っても徳川家康の根拠地であったし、その後に江戸幕府が成立してからも、藩政300年の間に歴代浜松城主が25代もころころと代わったが、水野忠邦などその多くが幕府の重役に出世した。老中に5人、大阪城代と京都所司代に各2人、寺社奉行に4人という具合で、「はま松は 出世城なり 初松魚」(松島十湖)と詠まれたという面白いお城である。

浜松城天守門


 浜松城の天守門を140年ぶりに復元し、加えて今年は天守閣の再建60周年記念だそうだ。天守閣そのものは3層構造で、他の城の天守閣を見慣れた目には、非常に小さく見えるが、登ってみると、見晴らしは非常に良い。ただ、最上階の周囲を金網で覆っているために、写真が撮れないのは、誠に残念である。手を伸ばして金網の上から数枚を撮ったが、疲れる。管理者の方で、金網のところどころに、写真用の穴を開けてくれればと思った次第である。

家康が三方ヶ原の合戦直後に絵師に描かせたという自らの憔悴した姿


 かねてより観てみたいと思っていたのが、家康が三方ヶ原の合戦直後に絵師に描かせたという自らの憔悴した姿である(本物は、たしか徳川美術館にあった)。言い伝えによると、家康はこれを見て常に自分を戒めたという。なるほど、油断したり奢ることなく、いつも自省しつつ慎重に行動するというのは、いかにも家康らしい。ところで、その脇にあった「徳川家康公400年記念事業として制作された30歳前後の等身大家康像。 『手相・しわ・毛穴』まで再現され、今までにない家康公の姿を披露しています。」には、そのあまりの迫真さにビックリした。

徳川家康公400年記念事業として制作された30歳前後の等身大家康像


 三方ヶ原の合戦(元亀3年:1572年)は、家康の生涯で最大の敗戦で、南下して通過しようとする武田信玄の騎馬軍団2万7千に対し、家康が1万2千(8千という説もある)で挑んで一蹴された戦である。この戦いについては、次のような色々な伝承がある。曰く、

 (1) 「小豆餅」「銭取」という地名の由来である。家康が三方ヶ原で敗戦の直後に逃げてきたところ、ある茶店に小豆餅を売っていた。それを口にしていたところ、武田氏の軍が追いかけてきた。そこで家康は、代金を払わないまま逃げ出した。茶店番の老婆はこれを数キロも追いかけて、遂に支払ってもらったという。その茶店があったところが「小豆餅」(あずきもち)と、代金を払ってもらったところが「銭取」(ぜにとり)というらしい。いずれも現存している。

 (2) 「白尾」というのは、三方ヶ原の敗戦で、白い尾の馬に乗って辛くも逃げてきた家康が、八幡神社の楠木の洞穴に逃げ込んだ。ところが白い尾が出ているので、村人がそれを指摘したことから、難を逃れた。家康は恩賞としてその村人に「白尾」(しらお)という苗字を与えた。

 (3) 「小粥」というのは、三方ヶ原の敗戦で逃げている途中の家康が空腹になり、とある農家に逃げ込んだ。ところが食べるものといえば、粥しかない。それを何杯も食べた家康は、お礼として後に「小粥」(おがゆ)という苗字を与えたという。

いずれも話としては面白いが、どれも出来過ぎていて、眉唾物である。


浜松ジオラマファクトリー スターウォーズ


浜松ジオラマファクトリー スターウォーズ


浜松ジオラマファクトリー 「天空の城ラピュタ」に出てくるロボット


 さて、そこから少し歩いて、ザザシティという建物の中にある「浜松ジオラマファクトリー」というところに行った。こちらは、山田卓司さんという地元のジオラマ作家の作品を常時展示しているところで、駄菓子屋さんの一画を借りている風である。スターウォーズやゴジラなどの日本の怪獣もの、スタジオジブリの「天空の城ラピュタ」に出てくるロボットなどがある。それに、郷愁をそそる「昭和シリーズ」(主に昭和30年代が描かれている。)、例えば、扇風機の前で気持ちよく寝入っている男の子、アイロンがけのお母さん、セミ採りの男の子などがある。そしてこれは一般からの応募作品らしいが、農家の嫁入りや卒業を描いた作品もあった。

浜松ジオラマファクトリー 扇風機の前で気持ちよく寝入っている男の子


浜松ジオラマファクトリー アイロンがけのお母さん


浜松ジオラマファクトリー セミ採りの男の子


 最後に、高層ビル(アクトシティ浜松)に行ってみた。そのHPによると、「大・中ホールやコングレスセンターなどを持つAゾーン、オフィスやホテル、専門店街のあるアクトタワーのBゾーン、展示イベントホールのCゾーン、楽器博物館・研修交流センターのあるDゾーンの4つのゾーンに分かれており、Bゾーンは民間が管理する民間施設、その他は浜松市から管理委託を受けて公益財団法人浜松市文化振興財団が管理する市施設となっております。アクトシティの象徴でもあるアクトタワーは、地上 45階、高さ212.77mの超高層ビル。 低層部にはガレリアモールとショッピング街・レストラン街で構成される『アクトプラザ』、中層部はオフィス、高層部には『オークラアクトシティホテル浜松』があり、人と環境の融和への配慮が随所に生かされた魅力的な都市空間となっております。
 浜松市の施設は、日本初の4面舞台を持ち、本格的なオペラや歌舞伎も上演できる大ホール、フランス・コワラン社のパイプオルガンを備えた音響の優れた中ホール、国際コンベンション等多用な利用が可能なコングレスセンター・研修交流センターの会議室、広さ3500平米を有し展示会や様々なイベントを開催できる展示イベントホールの貸出施設と、公立では全国で初めての楽器専門の博物館である『楽器博物館』、そして音楽の人材育成を図る『アクトシティ音楽院』から構成されております。」
という。

 何のことはない。最初に行った楽器博物館は、アクトシティ浜松の一部だったのだ。交差点のはす向かいにあるから、分からなかった。それはともかく、ハーモニカに当たるアクトタワーの最上階には展望台があるというので行ってみたが、残念ながらこの日は雨模様の曇りで非常に視界が悪い。ちょうど夕食時だから、30階のレストラン、パガニーニに行き、そこで食事をした。ちょっとしたコースがあって、なかなか美味しく食べられた。ビルの谷間に、先程、訪れた浜松城が見えた。


レストラン、パガニーニのコースの一部


レストラン、パガニーニのコースの一部



 ところで、このアクトシティ浜松について調べてみると、バブル経済の最後の1991年に着工されて1994年に完成した。市有の大中ホール、コングレスセンター、博物館、研修センターと、私有の複合商業ビル(アクトタワー)から成る。アクトタワーは高さが212m、45階である。静岡市で最も高いビルが葵タワーの125m、25階であるから、これを超えて静岡県で最も高いビルとなっている。静岡市への対抗意識からか、それにしても浜松市は頑張ったものだ。当初の事業主体は、浜松市と第一生命、三菱地所である。現在の運営主体は、市有施設は浜松市文化振興財団、私有施設はオリックス傘下の子会社である。市有施設は、音楽コンクールやサーカスの公演などの文化施設の運営がうまくいっているそうで、税金による赤字補てんはないようだ。私有施設については、いったんはバブル崩壊によって不良債権化しかけたことから、当初の施主の第一生命がオリックスの子会社に売却したようだ。しかしその後、浜松市が政令指定都市となったことなどから稼働率は回復し、今では入居率が95%と、過去最高を記録しているという。結構なことである。また、アクトタワーにあるホテルオークラ浜松は、当初はホテルオークラの直営であったが、2004年にオークラの名前を残しながらオリックスの運営になっているとのこと。ただ、レストランは、桃花林、さざんか、山里など、ホテルオークラ東京と同じ名前のため、私には馴染みがあるものの、運営主体が違っているとまでは思わなかった。レストラン・パガニーニの料理とサービスは、なかなか良かった。






 浜松への旅(写 真)




(2018年7月 7日記)

カテゴリ:エッセイ | 22:10 | - | - | - |
毛呂山の花蓮と睡蓮

毛呂山の花蓮


 私の家の近くには不忍池があり、毎年7月には、それはそれは見事な「蓮(はす)」の花が咲く。説明によると数種あるらしいが、一番多いし目立つのがいわゆる「古代蓮」である。この蓮は、東京大学農学部の大賀一郎博士によって、弥生の遺跡から「実」が発掘されて2000年ぶりに花を咲かせたということで、非常に有名になった。それは、鮮やかなピンク色をした、いかにも蓮らしい蓮である。清楚で清潔でありながら艶やかで、じーっと見つめていると、まるでその中に吸い込まれるような魅力的な色をしている。しかも、咲き始めて僅か4日で儚く散ってしまう運命にある。私はこの大賀蓮が大好きで、毎年のように朝早く起きて不忍池に撮りに行っている。

毛呂山の花蓮


 ところが、人間というのは贅沢なもので、たまには大賀蓮以外の蓮の花を撮ってみたくなった。白い蓮の花も良いし、できれば花弁の先がほんのりピンク色をしている蓮の花も撮りたい・・・先日、静岡のとあるお寺さんで見かけた蓮の花だ。そういう場所はないかと思って探してみたら、埼玉県毛呂山町で育てているという。それが意外なことに、少子化で使われなくなった町営の「流れるプール」で栽培されているそうだ。行田市から古代蓮など20種類以上の蓮の花をいただいて、苦心惨憺の末にようやく定着させることができた由。

 これは行かなくてはと思って、朝早く5時過ぎに起きて出掛けることにした。蓮の花は、夜明け頃に咲いて、お昼頃になると、もうそのほとんどが花を閉じてしまうからだ。文京区の私の家を発ったのが朝の6時半前、池袋から東武東上線で川越駅からJRに乗換え高麗川駅(こまがわ)に降り立った。そこからバスで直行できるはずだったが、どういうわけか終点の埼玉医大に来てしまった。仕方がないので、そこからタクシーで毛呂山総合公園に行った。着いたのは8時半だから、家を出て2時間もかかってしまったことになる。


毛呂山の花蓮


毛呂山の花蓮


 現地でいただいたパンフレットは、なかなか詩心(うたごころ)のある方が作ったとみえて、随所にその片鱗がうかがえる。まず、その題名が良い。「悠久のしらべ 花蓮の光明」とある。そして、次のように続く。

毛呂山の花蓮


毛呂山の花蓮


「悠 − 古代より命を繋ぐ蓮、美しさと生命力の強さをあわせ持つ
  根からも種からも繁殖する強さで泥のなかで根を張り巡らせる
  葉の上の露は宝石のようにキラキラと輝き
  天に向かって伸びた花は、命の輝きを水面に映す」


 確かに、 仏教では蓮は昔から西方浄土に咲く花として珍重されてきたし、泥の中でもこんなに美しく咲くことができるのだから、人間も見習うべきだなどというお坊さんの説教の題材にもなっていた。


毛呂山の花蓮


「清 − 泥に染まらず凛として、それでいて儚く、切ない・・・
  わずか3日の儚い命・・・4日目に散りゆくその姿は、悟ったように潔い
  大きく膨らんだその蕾は、ためらうように恥じらうように花開き、艶やかで気品ある姿で魅了する」


 いやまあ、確かにそういう感じなのだが、「ためらうように恥じらうように」とか、「艶やかで気品ある」とかというのは、若い女性をイメージしてのことのようで、私にはとてもとても思い付かない表現である。


毛呂山の花蓮


「慈 − 蓮は永遠の愛とやすらぎのシンボル、すべてに行き渡る広大無辺の愛
  誰にも優しく、心安らげる場所 − そんな公園でありたいと願う
  蓮が花開く以上のやりがいがここにある。」


 この公園を作って世話していただいている皆さんの合言葉のようなものであろう。ここに至るまでには、相当なご苦労があったようである。「毛呂山町の花蓮育成は、行田市より古代蓮の根を株分けしていただいたところから始まりました。はじめは、プール跡地での育成に四苦八苦しましたが、福田夫妻のたゆみないご尽力と多大なるご協力の下、大輪の花を拝むことができました。」という。


毛呂山の花蓮


「祈 − 夏の夕べ、竹灯籠が幻想的な世界を作り出す
  蓮の花は泥から出てきたとは思えない清らかな花を咲かせます。たとえ汚濁と混沌に満ちた世の中であっても、清らかに生きることの大切さを私たちに教えてくれているかのようです
  また、蓮はその美しい花ばかり注目されますが、美しい花が咲くのも、根がしっかりと育っているからこそです。泥中の 根は、見えないところで広く深く成長しますが、肥料を与え過ぎると根腐れを起こします。
  根本の手入れを怠ることなく、基礎をしっかりと築くことでようやく美しい花を咲かせることができるのです。何もものをいわない蓮ですが、香ばしい花を咲かせるたび、人の生き方、あり方について示唆しているかのようです。」


 今年の7月7日七夕の夕刻に、「花蓮 光明まつり」がここで行われるそうだ。蓮や睡蓮の中に、竹灯籠に火が灯され、その暖かい光が水に反射して、さぞかし美しいことだろうと思う。


毛呂山の花蓮


「憩 − どこまでも青く澄んだ空、緑深い山々、癒しの空間で自然を奏でる」

 確かに、この毛呂山総合公園のかつての流れるプールは、かなり山深いところにあるから、そういう風に表現できるのは間違いないが、「癒しの空間で自然を奏でる」どころか、たまたま行ったのは32度を越す猛暑日だったので、日射病になりそうだった。


毛呂山の花蓮


 蓮の花の中心にある、まるでシャワーヘッドのようなものは「花托」である。花が咲き終わって花びらが全て落ちると、これだけが残り、やがて成熟してたくさんの実を付ける。そこに、蜻蛉が留まっていた。小さい頃は、近くの神社の池で、よく追いかけたものだ。とても懐かしい。しばし、写真を撮ってその場に留まったが、かなり長い間、蜻蛉は微動だにしなかった。今や、蜻蛉を獲ろうという子供がいなくなったということか。

毛呂山の睡蓮


毛呂山の睡蓮


 ところで、蓮の花ばかりが注目されているが、同時に植えられている睡蓮(すいれん)の花も、なかなかのものだった。睡蓮の花は、新宿御苑夢の島熱帯植物館神代植物園のそれぞれの温室や明治神宮で見たことがある。しかし、こうして屋外で咲いているのを見たのは、ほとんどない。先日、明治神宮の花菖蒲を見に行った時に、たまたま黄色い睡蓮を目にしたくらいである。ここ毛呂山に植えられている睡蓮は、種類が多くて、花の色だけでも、赤色、ワインレッド、黄色、紫色など、様々なものがあった。赤色と黄色が半々のキメラのような睡蓮があったのには、驚いた。

毛呂山の睡蓮


毛呂山の睡蓮


 こうして、蓮も睡蓮も見終わって満足して帰ろうとしたところ、たまたま凌霄花(のうぜんかずら)のオレンジ色の花が目に入った。初夏にふさわしい元気な花で、見ていると力が湧いてくるようだ。

毛呂山の凌霄花









 毛呂山の花蓮と睡蓮( 写 真 )






(2018年7月 2日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:04 | - | - | - |
鉄道模型と横浜港

原鉄道模型博物館


 横浜の原鉄道模型博物館に行ってきた。6年前の平成24年7月10日に開館したもので、その頃に行った家内によれば、その当時は大変な混みようだったそうだ。私も小さい頃から模型が大好きだったから、そのうち行きたいとは思っていたものの、写真撮影は禁止されていると聞いて、行くのはやめていた。博物館の名前からして、これは「模鉄」(鉄道模型を造るのが好きな鉄道ファン)が主体のところで、「撮り鉄」(鉄道写真を撮るのが好きな鉄道ファン)は、眼中にないのだと早合点したからだ。

原鉄道模型博物館


 ところが、今回はたまたま田舎から出て来た人がいて、東京と横浜を案内することになった。聞いてみたら鉄道模型が好きだという。それではということで、初めてこの博物館へ行ってみた。すると、もうあまり観客がいなくなったせいか、それとも「撮り鉄」からの要望があったせいか、その経緯は知らないが、何とまあ撮影が解禁されていた。それどころか「ここが撮影ポイント」という表示すらあって、至るところに「撮り鉄」の心をくすぐる配慮がされていた。いやしくも鉄道ファンであるなら、こうでなくてはいけない。(既に、平成25年11月1日には、解禁されていたようだ。)

原鉄道模型博物館


 この博物館は、原 信太郎(1919年から2014年)という稀代の鉄道ファンによって作成、撮影、蒐集された鉄道模型(約6000両)、鉄道写真(約10万枚)・フィルムとビデオ(約440時間)、一番切符その他鉄道資料を展示するために設立された。そもそも、この原さんという人は、知れば知るほど、まるで規格外のスケールの人物である。

原鉄道模型博物館


 博物館の展示とHPによれば、「幼児の頃から、いかにグズっていても、鉄道の音を聞けばピタリと泣き止む。海外の鉄道について知りたくて、小学生の時から英語を学び、中学・高校でドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を習得。大学入学前にはロシア語も習得した。」。ううむ、この語学能力だけを見ても、並みの天才ではない。「小学6年生から本格的な模型製作を始める。・・・鉄道技術を学ぶために東京工業大学工学部機械工学科に入学。第二次大戦後、コクヨ株式会社で開発技術担当。在職中、世界初の立体自動倉庫やオフィス家具自動一貫製造ラインなどを開発し、300以上の技術特許を個人で出願・維持。」とある。鉄道模型以外でも天才的技術者だったというわけだ。加えて、「戦後は海外に積極的に渡航し、各国の鉄道車両を模型化。所蔵模型数約6000両。これまで訪れた国、延べ約380ヶ国。」いやはや、これは凄いとしか、言いようがない。こういう人がいたということを知っただけでも、本日はこの博物館に来た甲斐があったというものだ。

原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


 普通、何かの蒐集家といえば、乏しい資産の一切をありとあらゆるものを集めるのに使って、残ったものはガラクタばかりというのが通り相場である。ところが原信太郎の場合は、語学の天才かつ成功した技術者でありながら、非常に完成度の高い模型を数多く残した。HPに曰く「原信太郎の模型は、通常の模型と異なり、鉄のレールと鉄の車輪を用い、架線から電気を集める。また、揺れ枕やスパーギア、コアレスモーターなどを用いて惰力走行を実現したが、それぞれ、本物の鉄道の技術を深く理解して成立したもの」だという。ジオラマ展示室に入ると、本物の鉄道と同じく、「ゴォー、ガタンゴトン」という音に包まれるから、つい嬉しくなる。これは「本物の鉄道車両を忠実に再現していることです。模型は架線から電気をとり、鉄のレールを鉄の車輪で走行します。なかでもご注目いただきたいのはその"走行音"。レールのつなぎ目の音がゴトンゴトンと鳴り、本物と同じサウンドを聞くことができます。ギア、板バネ、ベアリング、揺れ枕、ブレーキ・・・外からは見えませんが、本物の鉄道で使われている技術を搭載することにより実現した」ものだそうだ。

原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


 また、ジオラマ展示室は、照明が変えられる。これで走っている鉄道車両は、昼間の走行、夕方の暮れなずむ頃の走行、そして夜行列車の雰囲気が味わえる。ジオラマは、街並み、大きな駅、鉄橋、山岳地帯などと、変化に富んでいる。その大半はヨーロッパのようである。ただ、街の広場のようなところで、ヨーロッパ人の人形に混じって、日本の漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公の警官「両津勘吉」らしき人形があるのには、笑ってしまった。ガタンゴトンと走る世界各国の車両に混じって、空中に黄色いゴンドラが浮かんで動いている。ちょっとした遊び心が散見される博物館だ。

原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


 隣の部屋には、また趣きが変わって、横浜みなとみらい21地区のジオラマがある。もちろん、鉄道模型であるから高架の鉄路があって、電車が走っている。秀逸なのは、左手の高層ビル横浜ランドマーク・タワー、中央の観覧車、右手のヨットの帆のようなヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルが描かれていて、昼間、夕方、夜間とそれらの照明が変わることだ。特に夜間は、ネオンが輝いて、本物に負けないほど美しい。また、昼間も、どこからともなく現れた海鳥が乱舞する。実に、良くできていると感心した。

海上保安庁巡視船


横浜中華街の関帝廟


シーバスから見た横浜みなとみらい21地区


 横浜駅東口ベイクォーターから、シーバスで元町公園に行き、横浜中華街を歩いて、そこでランチをいただいた。次いで再びシーバスで途中まで戻って、赤レンガ倉庫に着いた。すると、北朝鮮の工作船を展示している「海上保安資料館横浜館」別名「工作船資料館」があった。平成13年12月に奄美沖で発生したスパイ船領海侵入事件の主役で、いったん自沈した船を海から引き上げたものである。私は、平成15年に東京お台場にある「船の科学館」で、これを見たことがあるが、それ以来である。その感想はそれを記したエッセイに譲るが、今回は海上保安庁自身の展示とあって、工作船を追い詰めたときに受けた銃撃の模様や、ロケット弾攻撃の様子がビデオの資料として展示されており、より生々しくなっていた。現在の北朝鮮問題を考える上で、是非とも見ておくべき展示物だといえよう。

赤レンガ倉庫


海上保安資料館横浜館


海上保安資料館横浜館


 赤レンガ倉庫を見物して少し早目の夕食を食べ、それから夜景を見るために、大桟橋の方へと行った。ここは、海に突き出ていて、しかも3階ほどの高さがあるから、みなとみらい21地区の夜景を見るには、最適の場所だ。やがて夕闇が迫り、いい感じになってきた。先程の原鉄道模型博物館のジオラマより、もちろん本物の方が見応えがある。左手から右手へとライトの付いた建物などが連なり、横浜ランドマーク・タワー、横浜コスモワールドの大観覧車、クイーンズ伊勢丹の三連のビル、ヨットの帆のようなヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルである。中でも、大観覧車のカラフルな色が、暗くなった空に映え、何よりも美しかった。

横浜みなとみらい21地区の本物の夜景


横浜みなとみらい21地区の本物の夜景








 鉄道模型と横浜港(写 真)





(2018年6月17日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:08 | - | - | - |
雨の日光東照宮

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 日光東照宮には、遥か昔の半世紀ほど前と、最近では2009年に訪れたことがある。東京の自宅から2時間半以上かかるので、いかに世界遺産とはいえ、そう気楽に何度も行く気がしないところである。ところが、平成25年から31年3月にかけて行われる平成の大修理があと1年弱と終わりに近づき、特に三猿や国宝の眠り猫が見違えるように美しくなったという。加えて、田舎から出てきた人がたまたまいたので、一緒に見に行くことにした。しかし、残念なことが二つあった。

 一つは、訪れた当日の天候が悪かったことだ。6月の梅雨の季節らしい小雨で、その雨粒が画面に写り込んでしまうから、建物の写真を撮るには最悪の天候だった。しかも6月の半ばにしては、異常に寒い日であった。朝の気温は12度で、昼になっても15度にしか上がらない。私は、前日にアプリで天気予報を調べて、冬の下着にダウンのジャケットまで用意して行ったから、まだ何とか凌ぐことができた。でも、例えば同じバスに乗っていた70歳前後の屈強なおじさんは、半袖シャツ1枚という着た切り雀の姿で、着いた途端に「寒い。寒い。」を連発して、可哀想になったほどである。

 もう一つ、がっかりしたことは、輪王寺にしても、東照宮にしても、世界遺産の建物やご本尊の由来や歴史的意義のようなインテリ向けの説明が一切なく、説明パンフレットもなかったことだ。それに代わって、つまらないと言っては語弊があるかもしれないが、やれ鬼門除けだの、干支の数珠だの、御守りだのを、「これは御利益があります」
などと言って、売り付けようとするのである。しかもその説明が、「通常ならこの御守りは、毎年、神社に返納してお焚き上げをしてもらう必要があるけれども、これは御利益あらたかなので3年に1回でよい。」とか、大きくて丸い形だが上下が尖っている平板を示して「これは、家庭の鬼門を抑え、ご家族一人ひとりに巡りくる悪い運勢を良い運勢に 転じる鬼門除けです。はがきが同封されているので、これにお名前、住所、ご家族の名前を全て書いて送っていただければ、御守りの効果はその全員に及びます。」などと言う。ちょっと見たところでは、そのはがきには個人情報保護シールが添付されていないようだったので、どうなっているのかと思った。ともあれ、商売熱心が過ぎて、いささかげんなりとする。

 それよりも、外国人観光客の数が激増したのには驚いた。しかも、欧米人、中国人、東南アジア人と、満遍なく全世界中から来ている。ところが、そういう外国人観光客への配慮が足りないのである。特に英語の案内すらあまり見当たらない。この数年来、参拝客筋が従来の農村部の信心深い老人層から、外国人観光客へと劇的な変化を遂げているのだから、十年一日のごとく御守りやご祈祷などに拘泥せず、外国人観光客への対応をもっと考えればよいと思うのだが、いかがであろうか。

 

 

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 それはともかくとして、小雨が降る寒い中を歩いて見てきた順に書いておきたい。まずは、神橋から右手に折れて、緩い上り坂を登っていく右手に、日光山輪王寺の本堂(三仏堂)がある。入ったところの左手にある大きな建物なのだが、今は修理用の足場に囲まれて、建物本体の外観を全く見ることができない。その代わり、本物と同じサイズの絵が足場を覆うシートに描かれているから、笑えてくる。修理期間は10年で、今年で既に9年が経ち、もう内部はほぼ仕上がっているが、外の足場を外すのにあと1年かかるそうだ。

 日光山輪王寺は、そのHPによると、「本堂(三仏堂)・大猷院・慈眼堂・常行堂・中禅寺・大護摩堂・四本龍寺等のお堂や本坊、さらに十五の支院を統合して出来ており、その全体を指して輪王寺と総称します。境内地は大きく分けて、中央の「山内」と、「いろは坂」を登った「奥日光」の2ヶ所となります。」
とのこと。

 三仏堂には、千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音が安置されていて、いずれもなかなかの力量のある仏師の作である。しばしお顔を拝見し、有り難く拝んできた。こうしてごく近くで仏像を見上げて拝むというのは、かつて住んでいた京都や奈良ではごく当たり前のこととして行ってきたが、考えてみると、関東ではこれまでは鎌倉の大仏様くらいであった。そういう意味では、今回は貴重な機会である。この三仏のように、お顔の表情や御手、それにお身体の姿の良い仏像を見ると、拝見する我々の身も心も体も、すっかり洗われる思いがする。

 

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 昔、ロンドンの大英博物館の日本コーナーで、法隆寺の百済観音をすぐ目の前で見たことがある。本物が来るはずがないのでレプリカだったかもしれないが、その背の高いほっそりとした身体つきで、右手を掌を上にして肘から前へと倒し、左手は軽く伸ばして瓶を持つ。仏の顔に目をやると、目元と顔つきは優しいものの、どこか異国風である。その優雅な姿に、しばし心を奪われた。この経験をして以来、良い仏像とは、いわば心が共鳴するようになった。興福寺の阿修羅像、宇治平等院の阿弥陀如来像などがそうであるが、ここ輪王寺の阿弥陀如来像にも、そのような感覚を持った。

 三仏堂から、東照宮に向かう。その前に、輪王寺、徳川家康、家光の関係について、整理をしておきたい。元々、日光山は、奈良時代に開かれ、関東では有名な修験道の霊場だった。ところが江戸時代になって、日光が江戸の鬼門の方角に当たることから、それに対する押さえとするとともに徳川家の威光を示すために、諸大名に莫大な費用を負担させて、まず家康の東照宮が置かれ、次いで家光の廟が置かれて、今日に至ったものである。輪王寺のHPによると「日光山は天平神護二年(766年)に勝道上人により開山されました。以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられ、鎌倉時代には源頼朝公の寄進などが行われ、関東の一大霊場として栄えました。江戸時代になると家康公の東照宮や、三代将軍家光公の大猷院廟が建立され、日光山の大本堂である三仏堂と共にその威容を今に伝えております。」
という。

 

 

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 砂利道の参道を上がって行く。すると、右手に「世界遺産 日光東照宮」の石碑があり、その先に「東照大権現」の扁額が掛かった鳥居がある。徳川家康が大権現という神様だ。どうも日本という国は、こういう実在の人物を神格化して神様にしてしまうところがある。古くは菅原道真の天満宮であるし、新しくは乃木希典の乃木神社である。多神教の国ならではの現象である。いい加減と言えばその通りである。しかし考えてみると、唯一神の国よりも、この方が時代の流れに柔軟に対応できるのではないかと思う。

 例えば、イスラム教では、教義上許されている4人の妻は戦争で生まれる未亡人の救済の意味があったし、タブーの豚は当時は非常に不潔で病気の元になったというし、一日5回の礼拝はそもそも砂漠の民を従わせるにはそれくらいしないとダメだったというし、酒の禁止は砂漠性気候の下での飲酒は健康を害するおそれがあった上に戦士を常に素面にしておいて戦争に備えさせる必要があったなどと、教義が確立した時代には、それぞれちゃんとした合理的理由があった。ところが時代が移り、もはやそういう理由が解消されても、一神教だと、教義を見直して方向転換をするのはまず至難の業だ。現にキリスト教は、長い間、何世紀にもわたるカトリックとプロテスタントの間の血みどろの戦いを経てやっと争いは終息し、今ではようやくお互いを認めあって平和的に共存している。この間の犠牲は大変なものだった。その点、日本のような多神教の国では、宗教改革や教義の変更どころか、実在の人物に基づいて次から次へと神様が生まれるくらいの宗教的には柔軟な風土なので、その結果、各時代に応じた教義にならざるを得ない。だから、一神教の国ほどの宗教的な対立は、まず起こり得ないのではないかと思っている。

 

 

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 おや、雨が強くなってきた。左手に五重塔があるが、雨のせいで、上手く写真が撮れない。正面には、仁王門があり、階段を上って門を潜ろうとするとき、左右に安置されている仁王像を見る。これは、別に塗り直しはされていない。右手と正面に、上神庫・中神庫・下神庫の「三神庫」がある。この中には、春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められているそうだ。それに沿って直角に左に曲がると、神厩舎がある。これは、ご神馬をつなぐ厩で、昔から猿が馬を守るとされているところから、その長押上には「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿をはじめとして、猿の彫刻ばかりが8面ある。これらは、人間の一生を風刺したものだそうだ。その中で、三猿はというと・・・あった、一番左にあった。なるほど、この猿の彫刻は、いずれも修理がされていて、色が格段に鮮やかになっている。中でも、顔とお腹が真っ白である。まるで、漫画のキャラクターのようになってしまった。おかげで、見やすくなったのは事実であるが、歳月を経てきたもの特有の有り難みが失われてしまった感がしないでもない。

 

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 そこを右手へと曲がり、いよいよ陽明門に向かう。雨だから、どこを向いても写真には雨傘ばかりが写ってしまう。その階段にさしかかる直前の左手に鼓楼が、右手に鐘楼がある。この形でこの大きさの楼はなかなかないので、しばし見とれる。階段を登りはじめて陽明門を仰ぎ見ると、さすがに彫刻は綺麗になっている。特に、獅子は真っ白に塗られていて、こんなに美しいものだったかと驚くほどだ。武者像も塗り直しされたか、凛々しい表情である。天井の龍の絵が力強くて、これまた素晴らしい。思わず見とれてしまう。そもそもこの門はあまりに美しいものだか、見ていると日が暮れるという意味で、「日暮門」というそうだが、さもありなんというところだ。ただ、この日は土曜日なので、寒い気候にもかかわらず、大勢の参拝客やら観光客が押し寄せて来ているので、のんびり見上げている余裕はなかった。なお、陽明門そのものはこうして修理は終わったが、その両脇に広がっている「廻廊」の花鳥の彫刻は、陽明門と同じ国宝ではあるが、現時点では特に修理はされていなかった。

 

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 陽明門をくぐると、左手に神與舎、右手に神楽殿と祈祷殿があり、正面には唐門、その両脇には透塀がある。唐門には、「全体が胡粉で白く塗られ、「許由と巣父」や「舜帝朝見の儀」など細かい彫刻がほどこされて」いるそうだが、解説がないことには、どれがどれやらわからなかった。ちなみに、昔々の高校時代に習った記憶によると、許由と巣父はいずれも隠遁生活を送った国士である。許由は、古代中国の理想の君主である堯から州の長に任命されようとしたのを聞いて「耳が汚された。」といって川でこれを洗い、その顛末を聞いた巣父は川が汚れたといって渡らなかったと言われる。現代風にいえば、さしずめ「反骨の士」とでも言うのだろう。

 

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 神楽殿から家康廟の方に向かうところの坂下門の中に、名工である左甚五郎作の国宝「眠り猫」がある。見上げたところで目が合う位置にあり、初めて見たときには、「その名声に比べて、実物はこんなに小さなものか。」と思った記憶がある。もっとも、猫が実際によく見かける大きさよりもっと大きな彫刻だと、それこそまるでお化け猫だから、これくらいで、ちょうど良いのかもしれない。でも、今回の修理で顔が白く、目鼻立ちもくっきりとしたから、普通の大きさに感じた。

 そこから取って返して拝殿に入る。ここは、撮影禁止だ。あちこちで彫刻や柱が丁寧に修復された跡がある。ゆっくり見たかったが、何しろ人の流れが強く、トコロテンのように押し出されてあっと言う間に出て来てしまった。それから、本地堂(薬師寺)に向かった。ここには、天井に「鳴き竜」がある。天井の檜の板に大きな竜の絵が描かれている。昔ここに来たときは、柏手を打って音を聞いて喜んでいたものである。今回は、もっとシステマチックになっていて、一定数のお客さんを入れて、まず天井の竜の尾の下で、拍子木を打つ。すると、拍子木の鳴る音だけが聞こえる。次に天井の竜の顔の下で再び拍子木を打つと、あら不思議、拍子木の音の次に「キュィーン」という甲高い音が反響して、あたかも竜が鳴いているように聞こえる。それは良いのであるが。帰り際に何か売りつけられそうになったのには参った。

 そのあたりから、雨脚が強くなった。本来なら家光廟大猷院まで行くべきところだったが、気温が15度ほどと、まるで3月ではないかと思うほど低い。こんなところで風邪をひいてはつまらないと思い、すっかり意気を阻喪して参道を下りた。日光カステラのところまで下りて、そこでカステラをつまみつつ身体を温めて、帰途に着いた。日光へは、また1年後の大修理完了後に、再挑戦することとしたい。なお、来る途中に館林つつじが岡公園にバスが立ち寄ったので、写真集にはその様子も載せておいた。しかし、花菖蒲を見るには遅すぎ、さりとて蓮の花を見るには早すぎるという中途半端な時期であった。


 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 雨の日光東照宮(写 真)

 

 

 

 

 

 


(2018年6月16日記)
 

 

 

 

 

カテゴリ:エッセイ | 22:02 | - | - | - |
菖蒲アヤメと睡蓮

明治神宮

 

1.明治神宮の花菖蒲園

 都内3箇所で、菖蒲とアヤメを観てきた。まず最初は、明治神宮の花菖蒲園である。この悠々人生の記録を見ると、2010年6月13日に訪れている。こちらの特徴は、原宿や表参道という都会の繁華街のすぐそばにもかかわらず、まるで深山幽谷のような趣きのある菖蒲の花を楽しめることだ。千代田線の明治神宮前駅を降りて神宮橋を渡って、大きな鳥居をくぐって本殿につながる参道をひたすら行く。途中で森の中を左手に曲がり、500円の入苑料を支払って中に入る。

 いただいたパンフレットによると、この明治神宮御苑は、江戸時代初頭には熊本藩主加藤家下屋敷の庭園だったが、その後、彦根藩主井伊家のものとなり、明治維新で皇室の御料地となったそうだ。静謐な地だったので、明治天皇はお気に召され、「うつせみの 代々木の里は しづかにて 都のほかの ここちこそすれ」と詠まれたという。

 

明治神宮

 

 隔雲亭(かくうんてい)という数寄屋造りの家屋は、明治天皇が昭憲皇后の休息所として作られたそうだが、その前に南池(なんち)があり、今は睡蓮が真っ盛りに咲いている。ピンク色がかった睡蓮の花が実に美しくて、写真を撮った後も、その場でしばし眺めていた。池の真ん中には睡蓮の葉が密集しているところがあり、そこに1本の低い杭が打たれている。すると、その杭に、まるで図ったように青鷺がとまっていて、細長い首を伸び縮みさせながら水中の魚を粘り強く狙っている。10分ほどする内に、ついに魚を捕まえてしまった。

 

明治神宮

 

明治神宮

 

明治神宮

 

 南池から小径を進むと、両側を森に囲まれた花菖蒲園に出る。菖蒲田の周囲が緩やかなカーブを描いていて、誠に優雅な形をしている。立ち姿が美しい江戸系の菖蒲を中心に植えられているそうだ。おや、菖蒲の向こうに、白人のよちよち歩きの赤ちゃんが見える。菖蒲を見て、指をさしている。その脇には、白人のお父さんがいる。体重は、200kg近いのではないかと思われるが、この小さな赤ちゃんも、将来はこれくらいの偉丈夫になるのだろうか。

 

明治神宮

 

明治神宮

 

明治神宮

 

 花菖蒲を眺められる丘には、茅葺き屋根の四阿(あずまや)がある。今日のような太陽の光が燦燦と照りつけるような日には、非常にありがたい。そこに入って一休みしていると、目の前に「菖蒲、アヤメ、カキツバタ」の区別が書いてあった。それによると、花菖蒲(アヤメ科)は湿地に生育し、花の弁元が黄色く、葉の筋は表に1本、裏に2本。アヤメ(アヤメ科)は乾いたところに生育し、花の弁元が淡い黄色で周りが白色、葉の幅が細い。カキツバタ(アヤメ科)は水辺に生育し、花の弁元に細長く白い筋、葉は幅が広くて薄い。

 

明治神宮

 

明治神宮

 

 話は変わるが、私は「菖蒲」というのは、英語ではてっきり「iris」というものだと、昔から思っていたが、どうもそうではなくて、「菖蒲」は「Japanese iris」、「アヤメ」は「iris」又は「Siberian iris」というそうだ。これは、ややこしいと思っていたら、どちらも「sweet flag」でよいそうなので、これからそのように覚えておこうと考えている。ただし、「カキツバタ」は「rabbit ear iris」というらしい。「兎の耳」ねえ・・・それで「iris」か・・・ああ、またややこしくなった。肝心の「菖蒲、アヤメ、カキツバタ」だが、紺色、紫色、白色という単色の花はもちろん美しい。しかし、それにも増して、白色を基調に淡い紫色の線が混ざっている花も、また見事なものである。ただ、これらはどの花も、同じ品種ならほとんど差はなくて、例えば薔薇のような品種の多様性は見られない。またそこが、菖蒲らしいところだといえる。


2.しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

 足立区しょうぶ沼公園は、千代田線の北綾瀬駅のすぐ側にある。足立区のHPによると「しょうぶ沼公園一帯は、その昔野生のノハナショウブが多数咲き誇っていました。土地区画整理事業に伴う公園を造成するにあたり、昔の地名を残したいとの地元の方々の願いから、旧地名である菖蒲沼耕地にちなんで「しょうぶ沼公園」と名づけられました。」とある。

 

しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

 訪れたときは、たまたま「しょうぶ祭り」の日で、噴水広場は飲食物販エリアとなっていて、多くのテントが並んでおり、たくさんの人々が集って賑やかだ。そこを通って、細長い菖蒲田に向かう。目指す菖蒲田はすぐ近くにある。その前には、これもまた細長い藤棚があって、その下に並べられたベンチを涼やかなものにしている。そのベンチに腰を下ろして菖蒲田を見渡す。こういう下町のイベントの日だから、家族連れとお年寄りが多い。相撲の玉ノ井部屋が主催する子供相撲大会があるなど、長閑なイベントである。ここでも、菖蒲田の中に桟道が通っているので、菖蒲に近づいて写真を撮りやすい。しばらく花菖蒲とアヤメを撮り、三連水車なるものまで見て、満足して帰途に着いた。


3.小石川後楽園

 地元の文京区の東京ドームの隣にある公園で、言わずと知れた水戸藩の上屋敷、水戸黄門のゆかりの地である。そのHPによると、「江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え『(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ』から『後楽園』と名づけられました。庭園は池を中心にした『回遊式築山泉水庭園』になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。また、当園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。この地は小石川台地の先端にあり、神田上水を引入れ築庭されました。また光圀の儒学思想の影響の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。」とのことである。

同じ文京区に、柳沢吉保の屋敷跡である六義園がある。私はどちらかといえば、六義園が好きでよく行くが、この小石川後楽園には、あまり足を運ぶことはない。好みの問題かもしれないが、例えば春になると咲く枝垂れ桜は、小石川後楽園にもあるのだけれど、もう圧倒的に六義園の方が素晴らしい。池も、六義園の方は和歌調で、馴染みやすいのに対して、小石川後楽園のは西湖の堤などと中国趣味に溢れていて、今ひとつ馴染みがない。それに、秋の六義園の紅葉は、これまた素晴らしい。というわけで、六義園ばかりに目を向ける結果となってしまっている。ただ、小石川後楽園にも魅力はないのかと問われれば、決してそういうわけではなくて、早春の梅林と、それからこの季節の菖蒲と睡蓮は、とても素晴らしいと思っている。

 

小石川後楽園

 

小石川後楽園

 

小石川後楽園

 

 というわけで、まず花菖蒲田に行ったのだけれど、背景に文京シビック・センター(文京区役所)やら、東京ドームやら、挙げ句の果てには後楽園遊園地のジェット・コースターの一部が写り込んで、あまり良い写真にはならない。その割には、カメラを持った多くの皆さんがやってきて、写真を撮っている。都内の花菖蒲なら、堀切菖蒲園や、上の明治神宮の花菖蒲園の方が良いなと思う。

 

 

小石川後楽園

 

小石川後楽園

 

 花菖蒲園の隣には、梅林があって、ちょうど季節なので、梅の実が生っている。それを抜けて、大泉水の周りを回っていくと、紅葉の木の青葉が眩しいほど美しい。地面に生えた羊歯の葉も、梅雨入りした直後のせいか、生き生きとしている。

 

小石川後楽園

 

小石川後楽園

 

 それから最奥の唐門跡を過ぎると、内庭の池があり、睡蓮の葉が丸い大きな固まりとなって、池のあちこちに見受けられ、その中に白い睡蓮の花が咲いている。蓮の実ピンク色も華やかで美しく、私は大好きだが、こういう白い睡蓮も、清楚で綺麗である。マネやモネが、睡蓮を良く描いたのは、同じような気持ちだったのだろうか。



(2018年6月3日記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリ:エッセイ | 23:53 | - | - | - |
函館への旅

函館の夜景

 

 「函館への旅」といっても、そんな大それたものではない。仕事で行ったものだから、夕食直前の1時間と、夕食後の1時間半ほどで、それこそ慌ただしく写真を撮って回った程度なので、とても旅と言える代物ではない。しかし、まだ日がある時に撮った端正な教会群と、函館山からの夜景の写真が綺麗だったので、それを残しておくこととしたい。

 私は、函館に行くのは今回で4回目となる。1回目は、大学時代の若干20歳の頃に、旭川へ行く途中に立ち寄った。当時、北海道に行くにはもちろん飛行機もあったが、国鉄の青函連絡船が全盛期の時代である。乗ったのは八甲田丸だったのではないかと思うが、冬の寒い日に青森から津軽海峡を渡って函館にたどり着いた。市内観光のバスに乗り、元町の教会群やトラピスチヌ修道院、トラピスト修道院、それに五稜郭などを回った。その時、とりわけ函館山の上からの函館市内の夜景が実に美しくて、とても感動した。まるで色々な宝石を散りばめた宝石箱のようなものだったからである。六甲山の上に登って見る神戸の夜景も確かに美しくて心を動かされるが、この函館山からの夜景には及ばないと思った。というのは、神戸の夜景はどうしても左右に平面的に広がってしまうが、函館の夜景は左右対称にU字型に黒い海が市内に向けて切れ込んでいるから、その形がこれまた美しいのである。それに、当時は盛んだったイカ釣り漁船の漁り火が、黒い海面を煌々と照らしていて、若かった私には、希望の光のように見えたものである。

 2回目の函館訪問は、確か1990年の頃だ。当時、中学2年生だった息子に初めてゴルフをさせようと、函館本線の鹿部にあるホテルに連れて行ったことがある。その時、函館を通ったので、息子と夜景を見ようと函館山に登った。しかし残念なことに、濃い霧が立ち込めて、夜景を見ることは叶わなかった。でも、鹿部では晴れていて、絶好のゴルフ日和りだったのは、何よりだった。

 3回目は、4年前の7月の北海道縦断の旅の時である。最終目的地がこの函館で、湯の川温泉に泊まって、夜景を見に行った。この時は、やや霧が掛かっていたものの、綺麗な夜景が目の前に広がって、大いに満足したものである。この時点で、夜景見物は、2勝1敗というわけだ。

 そういう経緯を経て、今回の訪問になったのであるが、仕事も含めて函館市内にほんの1日という短い時間だったとはいえ、率直に感じたことを記しておきたい。まずは、市中心部に、住民の姿がほとんどいないのには驚いた。代わって見かけるのは、観光客、それも8割方中国人ばかりということだ。ここも地方都市のご多分にもれず、郊外に大規模スーパーやショッピングモールができて、そちらに人口が吸い寄せられてしまったらしい。それに、イカ釣り漁業が地元の中心産業だったのに、肝心のイカが取れなくなったという。加えて、北海道新幹線が2016年3月26日に開業して以降は、新幹線の駅が函館から「はこだてライナー」で約20分の新函館北斗駅になってしまったこともあると思われる。札幌まで延伸されれば、言葉は悪いが、函館があたかも「盲腸」のようになってしまい、そうなると北海道の玄関と言われた往時の繁栄を取り戻すのは、ますます難しいものと考えられる。

 そもそもこうなったのは、青函トンネルのルート選定にある。北海道の松前と青森県の津軽地方を結んで1988年3月13日に開通したが、これを「西ルート」とすると、函館と大間を結ぶ「東ルート」があったそうで、距離的にはこちらの方が近かったという。ところが、海底までの深さがより深かったことと、一部に掘削に適さない地層があったことから、採用されなかったそうだ。こちらに決まっていれば、函館が相も変わらず北海道の表玄関であったものをと、いささか歯噛みする思いである。

 それに、今回もし時間があれば、松前まで行くつもりだった。ところが時刻表などを調べて驚いた。最短で行くのに3時間、行ったは良いが、函館まで戻るのに待ち時間が多くて6時間という。北海道新幹線の開業で、在来線は道南いさりび鉄道という第三セクターに代わっていて、それも松前に行く途中の木古内までしか行かない。木古内には新幹線の駅があり、新函館北斗駅の次の駅だ。ところが、そこから松前までは鉄道が廃止されてしまっていて、路線バスしかない。木古内と松前間は、これで1時間半だ。松前には新幹線は通るが、木古内のような駅がないために陸の孤島のような状態になっている。ということで、松前に行くのは早々に諦めたが、2031年に新幹線が札幌まで全線開業して以降は、函館がそのような状態にならないかが心配である。

 今回、函館では、ロープウェイ山麓駅の近くの教会エリアを、合わせて回ってきた。函館ハリストス正教会(ロシア正教)、日本キリスト教団函館教会(プロテスタント)、函館聖ヨハネ教会(英国国教)などである。特に、ライトアップされた函館ハリストス正教会は、神々しいばかりに美しい。  では、写真を撮った順に説明して行こう。まず、泊まったホテル「ラビスタ函館ベイ」から函館山の方向に向かった。昔は埠頭の倉庫だった地区が、レストランや物品施設に再生されている。「金森赤レンガ倉庫」というらしい。空の青さとレンガの赤い色との対比が美しい。中には、一面が緑の蔦に覆われているところがある。これも綺麗だ。港にはヨットが浮かんでいる。「Amigo」、スペイン語で「友達」とは、なかなか良い。

 

金森赤レンガ倉庫

 

ヨットAmigo

 

 交差点に来た。さて、どちらに行こうか。このまま函館山の方へは、八幡坂通りを上がっていけば良さそうだ。それにしてもこの坂は、かなり急だ。歩道に階段まである。左手に、日本キリスト教団函館教会があった。アーチの入り口や窓が美しい。HPによると、「日本キリスト教団函館教会は、統一協会(統一原理)、エホバの証人(ものみの塔)、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)とは一切関係がありません。正統的なキリスト教信仰に立つ教会です。その中でも、東方教会(ギリシャ正教やロシア正教など)に対して、西方教会に所属します。さらに、その西方教会のうち、ローマカトリック教会から、16世紀に分かれた福音主義(プロテスタント)教会です。どなたでも礼拝に出席できますので、どうぞお出かけください。」とある。なるほど、かなりオープンなのだ。

 

日本キリスト教団函館教会

 

シャルトル聖パウロ修道女会函館修道院マリア像

 

 そこから更に八幡坂を登ったところに、シャルトル聖パウロ修道女会函館修道院があって、その脇に設置されているマリア像が、優しさ、慈しみ、母性愛を深く感じさせて秀逸である。この修道院は聞いたことがないなと思ってHPを見てみると、「1878年(明治11年)5月28日、北日本代牧区のオズーフ司教からの要請を受けて、 フランスの修道会本部から派遣された3人の修道女が函館に上陸し、日本宣教の第一歩をしるしました。Srマリー・オグスト、Srマリー・オネジム、Srカロリヌでした。マスールたちは早速、近隣の病人訪問を始め、これがのちの診療所「博愛医院」と名付けられ、。翌年の大火で親を亡くした子どもたちを引き取って育てたのが、現代の乳児院と児童養護施設となりました。また、近隣の少女たちに編み物や刺繍などの手仕事を教えたのが学校の始まりで、明治19年には「聖保禄女学校」が開校しました。現在の「函館白百合学園中学校・高等学校」の前身です。以来、130年余、度々の大火や第二次世界大戦の戦火をくぐりぬけながら、社会福祉・医療・教育が本会の日本での宣教の主な柱となっていったのでした。3人の創立者とその後に続いた宣教女、日本人修道女たちの播いた種が、函館から日本各地に芽吹き成長し実を結んでいるのです。」とある。いやすごいものだ。同じHPに「全世界へ行って、福音を宣べ伝えなさい」とも書いてあるが、フランスの修道会本部の指示だったのだろう。19世紀にこんな言葉に送られて、欧州からすれば未開の地と思われていた極東の島国にやって来て、たった3人の女性で、診療所、乳児院、学校などを次々に作って行ったとは、驚きである。宗教的情熱の為せることとはいえ、3人寄れば文殊の知恵、人間やってやれないことはないという見本のようなものである。

 思わぬところで手間取った。もう少し八幡坂を登って、やっと左右に広がる水平な道に出た。正面には函館西高等学校がある。この生徒さんたちは、毎日こんな急坂を登っているのだから、さぞかし身体が鍛えられることだろう。左手に行くと、函館ハリストス正教会だ。こちらは、函館で最も美しい教会だと思うし、また観光客の敷地内への立ち入りが許されるなど、オープンな精神で素晴らしい。ギリシャ正教と日本との関わり合いについては、去年2月に豊橋ハリストス正教会に行って来たときに神父さんからお聞きした話があるので、そちらをご覧いただきたい。

 

函館ハリストス正教会

 

函館ハリストス正教会

 

 ところで、この函館ハリストス正教会の建物は、横から見ても素晴らしいが、中でも一番美しいと思うのは、やはり正面からの姿である。入り口のアーチ、その上のイコン、更に上に乗っている玉ねぎ型のドームは、見る人に忘れられない印象を与える。脇に回ってみると、聖ニコライの絵があった。ちなみに同教会のHPによれば、「函館ハリストス正教会は、1858年(安政5年)、日本で最初のロシア領事館が箱館に置かれたことに端を発する。1859年(安政6年)、初代ロシア領事、ゴシュケヴィツチは、現在の教会所在地にロシア領事館の敷地を確保。その附属聖堂として1860年(安政7年)、日本で最初の正教会の聖堂「主の復活聖堂」が建てられた。1861年(文久元年)、管轄司祭ワシイリイ・マホフ神父の後任として、修道司祭ニコライ・カサートキンが来函(1912年、東京神田にて永眠。1970年、「亜使徒日本の大主教聖ニコライ」として列聖される)、函館を拠点とした正教の伝道が始まる。1868年(慶応4年)、函館において最初の日本人三名の洗礼が行われた(パウエル澤辺琢磨、イオアン酒井篤礼、イアコフ浦野大蔵)。1882年(明治15年)、管轄司祭として初めて日本人の司祭ティト小松韜蔵が着任し、次第に日本の正教会として根付いていく。1907年(明治40年)の函館大火で焼失した初代聖堂に代わって、1916年(大正5年)、現在の聖堂が建てられた。1983年(昭和58年)、聖堂が国の重要文化財に指定される。」

 

函館ハリストス正教会

 

函館ハリストス正教会聖ニコライの絵

 

 1996年(平成8年)、鐘楼の鐘の音が、環境庁の「日本の音風景百選」に認定されたという。聴いてみると、単調ながらも、鐘の余韻が素敵で、なるほど、さもありなんと思う。これに比べれば、私がよく通りかかる御茶ノ水のニコライ堂の鐘の音の派手なことといったらない。ガラン、ゴローン、ガラン、ゴローンと、うるさく感じるほどだ。ちなみにこちらは、音風景百選には入っていない。

 

日本聖公会函館聖ヨハネ教会

 

 隣に、日本聖公会函館聖ヨハネ教会がある。建物が不思議な形にしているとは思ったら、上空から見ると十字架の形になるようになっているそうだ。聖公会というのは、私にはあまり馴染みがないので、そのHPを見てみると、「1874年、英国人のデニング宣教師の函館上陸と共に、道内最初の聖公会として活動を開始。数度の大火で聖堂を焼失することもあったが、医療、教育事業も展開した。現聖堂は1979年に落成。聖公会の礼拝堂では珍しく、ドーム型の天井を有する。教会は観光の中心地である元町にあり、ハリストス正教会、カトリック元町教会が隣接。年間、のべ1万人に上る見学者が教会を訪れる。」

 「私たちの教会は聖公会と言います。「聖公会」は、カンタベリー大主教を精神的指導者とするイングランド教会を母体に、世界160ヵ国に広がる教会です。(信徒6500万人)。ローマ・カトリックとプロテスタントに大別される西方キリスト教会の中で、聖公会は両者の要素を兼ね備え、その中間に位置しているといわれています。聖公会の信仰は、東アジアには18世紀から19世紀にかけて、英国と米国の両聖公会から伝えられました。日本には1859年(安政6年)米国聖公会から二人の宣教師が渡来、今日の礎を築きました。キリスト教禁令が廃止された後は英国、カナダ聖公会の宣教師団も伝道に加わり、1887年(明治20年)「日本聖公会」が創設されたのです。現在、日本聖公会は北海道から沖縄に至る全国11の教区によって構成され、約300の教会があります。その他、立教大学などの大学及び短大、小、中、高校、各種専門学校等の教育機関、幼稚園、保育園、また聖路加国際病院を始めとする種々の医療事業や社会福祉事業は日本聖公会の宣教の中で生まれました。」

 なるほど、池袋の立教大学や、築地の聖路加国際病院の源流が、聖公会にあるとは、ついぞ知らなかった。

 

カトリック函館元町教会

 

カトリック函館元町教会

 

 カトリック函館元町教会というのがあった。函館ハリストス正教会からは一段、坂下に位置しているので、正教会からその十字架のある屋根がよく見えた。そのHPによると、「カトリック函館元町教会は、横浜山の手教会や長崎の教会とともに長い歴史がある。1860年にパリ福音主義伝道師メルメット・キャションによって仮の教会が建てられ、マリア様の無原罪懐胎に捧げられた。現在の教会は、1921年の函館大火の後、1924年に建てられたものである。重厚な内装が特徴的なゴシック様式で、日本にある大聖堂の中では極めて稀なものである。中央祭壇を含めてすべての彫像は、イタリアのチロル地方(現在はオーストリアの一部)製の木材で造られ、法皇ベネディクト15世によって本教会に送られたものである。」(原文は英語(注)で、宗教用語が多いことから正しい翻訳ではないかもしれない。)

 

旧函館区公会堂

 

 それから、元町公園へと歩いて行った。公園に着くと、旧函館区公会堂がある。いかにも、明治の洋式建築という雰囲気のある建物である。その説明によると、「明治40年(1907年)8月の大火で、函館区の約半数、12,000戸余りを焼失した。この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため・・・区民の浄財を募ったが、思うように集まらなかった。当時、函館の豪商と言われた相馬哲平氏は自分の店舗など多くを消失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したためこれを元に明治43年現在の公会堂が完成した。この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で左右対称となっているほか、2階にはベランダを配しているほか屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱には柱頭飾りがあるなど、特徴的な様式を表している。」

 

旧北海道庁函館支庁庁舎

 

 他にも、元町公園には同様な明治洋風建築物として、旧北海道庁函館支庁庁舎があり、また、函館の街の発展に尽くした四天王、今井市右衛門、平田文右衛門、渡邉熊四郎、平塚時蔵の銅像がある。その添書きによると、「明治の函館は本州の都市のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく、市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。造船所、器械製作所等の重要産業を興すと共に日刊新聞の発行、学校、 病院、水道、公園をはじめ、恵まれない人々のための教育、医療施設に至るまで力を尽くした。明治、大正には東京の文化は東北を素通りして北海道に渡ったといわれたが、その北海道とは函館のことである。その繁栄は、平田文右衛門をはじめ四天王の合議によって昔の泉州の堺港のと比べて明治の自由都市と称する人もある。人口は終戦前まで常に全国第十位前後であった。」

 

四天王といわれたこともあったが、今井市右衛門、平田文右衛門、渡邉熊四郎、平塚時蔵の銅像

 

ペリー提督

 

 なるほど、明治期の函館は、中世の堺と比肩されるほどの自由都市で、市民のリーダーによってその合議により運営されたとは、知らなかった。だからこそ、これだけの近代的な街並みができたのだと納得した。しかし実はその前提として、函館が発展する契機となったのが、アメリカのマシュー・C・ペリー提督の来航だった。というのは、江戸幕府の終わり頃に締結した日米和親条約で下田とともに箱館(現在の函館)が開港地に選ばれ、ペリー提督はその下見にやってきたのである。これから、函館は国際港湾都市としての道を歩むことになる。ということで、元町公園に隣接してペリー提督の銅像が建てられている。ちなみに、この来航時には箱館奉行所は元町公園の所にあったが、外敵に襲われた場合にひとたまりもないため、防衛を堅固にすることとし、合わせて蝦夷地統治の拠点として五稜郭の建造が決定され、奉行所はそこに移ったという。私は、かねてから中央から遠く離れた蝦夷地に、なぜあのような近代的な城郭が築かれたのかと思っていたが、なるほど、開港したばかりで列強の軍事力を怖れてのものだったのかと、これも良くわかった。もっとも、それが後日、戊辰戦争の舞台になろうとは、誰も予想し得なかったことだろう。

 

ロープウェイに乗り込み、動き出したばかりの函館の夜景

 

函館の夜景

 

 夜8時頃に、ホテルから函館山麓のロープウェイ乗り場へとタクシーで向かった。直ぐに着いて、往復乗車券を購入して乗り込んだ。湾の方を向いていると、ロープウェイが上がるに連れて、それまで寝ているように見えた夜景が起き上がって立体的になってくる。山頂駅に到着し、早速、夜景が見える展望台へと駆け上がった。3階ほど上になる。幸い、この日は快晴で、霧もなく、目の前にはダイヤモンドがキラキラ光るような函館の夜景が広がっている。これは絶好の撮影日和りだ。これで夜景見物は、3勝1敗である。さっそく三脚を出し、周りの人の邪魔にならないように立てて写真を撮る。左側の湾の岸壁に係留されているのは、青函連絡船だった摩周丸だ。拡大して撮ってみたら、まあまあ写っている。しばらく撮っていて、たまたま右手の太平洋側を見ると、海の中が煌々と満月に照らされている。そういえば、この数日は、木星が地球に大接近していたはずだ。と思って夜空を見ると、あの満月の左上にある惑星らしき星が木星かもしれない。試しに撮ってみたが、そもそも星を撮るレンズを付けているわけではないし、明るい月が隣にあるから、上手くいかなかった。

 

函館に係留されている青函連絡船だった摩周丸の拡大

 

函館の夜景の拡大


 山頂からロープウェイで降りてきて、そこから日中に見た教会のライトアップを撮りに行った。函館ハリストス正教会は白くライトアップされて清浄無垢、あるいは謹厳な感じがし、函館聖ヨハネ教会は白とオレンジ色のライトアップで、暖かい印象を受けた。
 

函館ハリストス正教会

 

函館聖ヨハネ教会



 


 
 函館への旅(写 真)



 

(2018年5月31日記)





(注)History of Catholic Motomachi Church Catholic Motomachi Church has an old history along with Yamanote Church in Yokohama and Ohura Church in Nagasaki. In 1860, atemporary church was built by the Paris Evangelical Missionary Societypriest Mermet Cachon and was dedicated to the Immaculate Conception of the Blessed Virgin Mary. The present church was constructed in 1924 after the Hakodate Great Fire of 1921. Gothic architecture characterizesits magnificent interior, which is quite rare among cathedrals in Japan. All the statues including the central altar were made of wood in the Tirol district of Italy (now part of Austria) and were sent to this church by Pope Benedict XV.


 

 

 

 

カテゴリ:エッセイ | 23:09 | - | - | - |
屋久島への旅

屋久杉

 

1.屋久島とは

 鹿児島県の屋久島に一泊二日の短い日程で行ってきた。先日、NHKの番組で、いかに屋久島が特殊な成り立ちの島かという解説を行っていて、興味を覚えた方も多いと思う。屋久島は、黒潮に浮かぶ周囲100kmの丸い形の島で、2つの地層から出来ている。まず、4000万年前から海洋部のフィリピン海プレートの上に堆積した地層が、プレートの沈み込みによって大陸側のユーラシア・プレートに乗り上げたものが島の基盤となった。次いで1550万年前に地下深部からマグマが上昇して冷えて固まり巨大な花崗岩となり、それが最大1000mも隆起して花崗岩の上部が地表に露出し、島を代表する中央部の山岳地帯の地層が形成されたというものである。ところが、7300年前に屋久島の北30kmのところで鬼界カルデラ火山が大爆発を起こした。その時に発生した火砕流が海を渡って屋久島を襲って生態系が大きく破壊されたと考えられている。大変な歴史があったものだ。

 現在、屋久島の人口は、12,300人、24集落があり、海岸部の平地に住む。屋久島に最初に定住したのが平家の落人だったという伝説があり、そのときに海上から舟を寄せる目印にしたという丸くて白い石が残っている。島の9割が森林山岳地帯であることから、「洋上のアルプス」とも称される。隣の細長い種子島で一番高い山の高さは282mなのに対して、屋久島には1000m以上の山が45座、1500m以上の山が20座、うち宮之浦岳が一番高くて、1936mというから、地中深くで前述のような大規模な地質の運動でもない限り、そんな不思議な地形の島は、できないはずだと納得した。ちなみに、その宮之浦岳だけれども、地元の皆さんが住んでいる地区のどこからも全く見えない。その手前に立つ他の高い山に邪魔されてしまうからである。

 屋久島の海岸部は亜熱帯気候であるのに対して、島の中心部は高山地帯特有の亜寒帯気候であることから、非常に変化に富んだ植物が見られる。まず、周辺部全体が照葉樹林であり、落葉樹はないので、秋の紅葉というものはない。シダ植物が豊富で300種類もある。とりわけウラジロは、新芽が出る季節がとても綺麗である。それから苔類の数は600種類以上もあり、白谷雲水峡は、「もののけ姫」のモデルとなったほど苔の多いところである。標高1,000m以上のところには、杉の大木である屋久杉が生えている。中には昭和41年に発見された縄文杉のように、その年齢が2,000年とも、いやいや7,000年以上とも言われるほど古いものもある(放射性年代測定では、2000年だった。)。ちなみに縄文杉を見るためには完全な登山行となり、往復に平均10時間かかるといわれる。先日やってきた海上自衛隊員は頑張って6時間というから、これが限界である。

 屋久島は古代から神の島であり、その大木の屋久杉は神の木として伐採されてこなかった。それが江戸時代になり、鹿児島の島津藩への年貢代わりに、屋久杉を切って横60cm、縦10cmの平木(ひらき) にして納めるようになった。屋久杉は油分が多くて、屋根を敷く用途に使われたそうである。木目が曲がっていたら平木にはならないので、形の良い杉ばかりが切られた。また、外側はまっすぐでも切ってみたら木目が曲がっていて使えないという杉は、そのまま現地に放置された。更には「土埋木」(どまいぼく)と言って、根とそれに近い部分は油分が多くて加工しにくいので、これもその場でそのまま放っておかれた。普通の杉なら直ぐに朽ち果てるたころだが、屋久杉は何しろ油分が多いことから300年近くも変わらずに残っている。

 ということで、それなりに事前勉強をして行くことにしたのであるが、調べれば調べるほど、縄文杉のところまで行くのなんてとんでもないという結論になった。でも、やはり屋久杉を見なければ始まらないと思い、何とかならないかと思って調べたら、島の中央部の標高1,200m付近に屋久杉ランドというところがあり、そこには一周30分コースから150分コースまであるという。ただ、安房(あんぼう)という集落から内陸部に向かって15kmもあるということで、行くだけで疲れ果ててはどうにもならない。そこで、到着したその日は屋久杉ランドに行く観光コースに、次の日の午前中も屋久島の海岸部を一周する観光コースに乗ることにした。最もお手軽で、とりあえず全部を見られるというわけだ。


2.屋久杉ランド

 そういうことで、屋久島に着いた当日は、空港から「やくざる号」という小型観光バスに乗った。安房(あんぼう)を経由して島の中心部に向かい、屋久杉ランドまで直行した。標高1,000mから1,300mに広がる面積270haの自然休養林とのことで、歩く人の体力と関心に応じて、30分、50分、80分、150分の4コースに分かれているそうだ。私が乗った観光バスには「50分の散策」とあったから、てっきり50分コースだと思い込んでいたが、30分コースだと分かって、少しガッカリした。

 

屋久島レクリエーションの森保護管理協議会のサイトより転載

 

ヤクスギランドの入口

 

 屋久杉ランド(正確には、ヤクスギランド)の入口には小屋があり、そこで森林環境整備推進協力金という実質的な入山料500円の支払いを済ませて、いよいよ出発である。森林内の湿気が凄い。「屋久島は、ひと月に35日も雨が降る」などと冗談まじりに言われるほど雨の多い土地柄で、行ってみると森の中に霧が出ている。だからカメラの自動焦点が定まらない。また、歩く足元にはとりあえず道らしきものが整備されているものの、湿気のために非常に滑りやすい。私はトレッキング・シューズを履いてきたから大丈夫だったが、そうでない街中を歩くような靴を履いていた人は、相当、慎重に歩かないというスリップしてしまう。しかも、高低差のある道を歩く。でも、沢渡りをしなければならないところには、簡単な踏み橋や吊り橋がかけられていて、なかなか考えられている。

 

ヤクスギランドの杉

 

ヤクスギランドの杉

 

ヤクスギランドの杉

 

ヤクスギランドの杉

 

 そうした橋から下を見下ろすと、流れる水が本当に透き通っていて、美しい。島の高地全体が花崗岩でできているので、泥などないのだ。また、岩を抱くように木が生えていたが、長い間にその岩が失われて、結果として木の根だけが空を張っているものすらある。岩は全面が苔に覆われているし、木の根にもびっしりと苔が生えている。羊歯植物も多い。森に特有の清浄な空気に、肺の中が隅々まで洗われるようだ。土埋木が出てきた。つくづく眺めてたくさん写真を撮りたいが、グループだからそれについていかなければならないのが辛いところだ。さりとて、プロの写真家ではないのだから、こんな森林内に一人で来る気もしない。少しその場に留まって写真を撮って、走って仲間を追いかけるということの繰り返しだ。「ときめきの径」と称するこのコース上には、木の股を潜り抜ける「くぐり栂」、「林泉橋」、切株の中から別の木が生えている「切株更新」、「千年杉」(ちなみに屋久島では樹齢千年以上になって初めて一人前の「屋久杉」と呼ばれ、それ以下は「子杉」と言われるそうだ。)、「双子杉」、「くぐり杉」、吊り橋の「清涼橋」などがある。コース上では、この季節には「油桐(あぶらぎり)」の白い細かい花や、薄いピンクの「桜つつじ」、コブラが鎌首を持ち上げたような「マムシ草」が咲いている。
 

羊歯の芽生え

 

羊歯

 

マムシ草

 

桜つつじ

 

 そのコースを歩き終えて、そこから車で20分ほどの「紀元杉」を見に行った。この屋久杉は、周囲8.1m、樹高19.5m、推定樹齢が3000年である。残念ながら何年か前の台風で先端が折れてしまったようだが、それでも下から見上げると堂々とした風格を感じさせる樹姿である。私は写真で自らの姿を撮ることはあまりしない方だが、この時ばかりは紀元杉と一緒の写真を撮りたくなって、ガイドさんにお願いして撮ってもらった。

 

紀元杉

 

紀元杉

 

紀元杉

 

 

 

 


3.屋久島海岸部

 

 

観光コースのパンフレット

 

観光コースのパンフレット

 

千尋の滝(せんぴろのたき)

 

千尋の滝近くの紫陽花

 

 さて、翌日は、別の観光コースに参加した。屋久島は丸い形をしている。それを上から見下ろして時計に例えると、4時の位置の安房から時計回りに1時の位置の宮之浦まで、ほぼ四分の三周するものだ。まずは5時の位置にある「千尋の滝(せんぴろのたき)」である。「滝の左側にある岩盤は、まるで千人が手を結んだくらいの大きさ」ということで、この名が付けられたという。ちょうど「V」字型の谷の中央部から勢いよく水が落ちている。モッチョム岳という不思議な名前の近くの山から流れてきた水だそうだ。でも、落ちる水を見て見て感激するかと聞かれればそうでもなくて、「ああ、滝だ」というのが正直なところである。それよりも、滝の左側にある赤味を帯びた巨大な一枚岩に注目したい。高さ300mで、地下深いところでマグマがゆっくり冷えてできた花崗岩である。滝よりも、むしろこちらの岩に重点を置いて観光客にアピールした方が良いかもしれない。ちなみに一枚岩で、世界一大きなものは、オーストラリアのマウント・オーガスタス(858m)であるが、その次がウルル(エアーズロック。335m)だから、これと比べて決して引けを取らない。

 それからバスでしばらく行くと、「イタリア人宣教師シドッチの上陸地点」がある。鎖国下の1708年に屋久島に上陸したが捕らえられ、長崎経由で江戸に送られて、茗荷谷の切支丹屋敷で亡くなったという。新井白石がシドッチから外国事情を聞いて、本にしたものが「西洋紀聞」である。

 

中間(なかま)ガジュマル

 

中間(なかま)ガジュマル

 

ブーゲンビリア

 

 ガジュマルが植えられている「中間(なかま)集落」を通った。7時の位置である。ガジュマルは桑科の植物で、根を張って長持ちすることから、海からの風の影響を防ぐために家の周りに植えられたという。古いと300年もの樹齢の木もあるそうだ。ちなみに屋久島は、ガジュマルの最北限の生息地だとのこと。どこかでお目にかかったのではないかという気がして、よくよく見ていたら、「ああ、これは『締め殺し』という物騒な名前で聞いたことがある」と思い出した。ベトナムで見たことがある。他の木の上で芽を出して、垂れ下がった気根を絡みつかせ、ついにはその寄生されてしまった木を枯らしてしまうという、ちょっと恐ろしい木である。

 

大川の滝

 

大川の滝からの清流

 

 「大川の滝(おおこのたき)」は、8時の位置にある。この島では、「川」のことを「こ」というそうだ。先端から滝筋が2本に分かれていて、左側の水量が多くて、右側の水量はさほどでもない。ガイドさんが言うには、雨がたくさん降って水量が多いときには、中央から1本になってドドっとばかりに降ってくるらしい。

 

西部林道(せいぶりんどう。世界遺産)

 

西部林道(せいぶりんどう。世界遺産)

 

西部林道(せいぶりんどう。世界遺産)

 

 バスは、「西部林道(せいぶりんどう。世界遺産)」に入る。8時の位置から10時の位置である。海から1000mの高さまで垂直に山がそそり立っていて、それを見ると日本列島の全ての植物層を一度に見られるという。実は、この世界遺産の地区は、杉の木も含めて木は切られていない、手付かずの原生林だという。林野庁が一旦は切る方針を示していたが、色々あった結果、幸いにしてこのように残ったそうな。良かった。おかげで、世界遺産に登録されたという。

 

西部林道にいたヤクザルの母子

 

西部林道にいたヤクシカ

 

 そういう原生林であれば、屋久島だけに生息しているヤクザルとヤクシカが見られないかと、期待が高まる。ちなみに、いずれも本土の猿や鹿と比べて、身体がひと回り小さい。特にヤクシカは体重が平均36kgで、エゾジカの120kgに比べれば、子供と大人くらいの違いがある。林道の終わりに近づいて、もう猿も鹿も撮れないのかと諦めかけたときに、道路の左端に、何尾かの猿が現れた。しかもその内の一匹は、胸に抱いた子猿に授乳中である。バスの中からだったが、何とか撮ることができた。気を良くしていると、今度は道路の右手斜面に鹿が現れた。これがすばしこくて、カメラを向けてもお尻の白い尻尾しか撮れない。やっと撮れたと思ったが、顔が草の葉で隠れてしまったり、お尻を向けられている。こちらは、上手く撮れなかった。

 

永田いなか浜

 

永田いなか浜

 

永田いなか浜の海亀が産卵した卵がある場所を示す標識

 

 その西部林道を抜けて、「永田いなか浜」に着く。永田(ながた)集落だ。こちらは、海亀の産卵地として有名で、もう産卵シーズンが始まっている。私が行った時には海岸の一角が仕切られていた。海亀が産卵した卵がある場所に、人が近づかないようにする保護措置だそうだ。また、産卵する海亀は神経質になっていて、道路を走る車のヘッドライトが目に入るとまた海の中に戻ってしまうので、遮光板が設置されていた。1回の産卵で120個ほどの卵を産むという。見たい観光客は、午後8時頃から海岸に行き、待っているそうだ。

 

永田いなか浜の向かいに見える口永良部島

 

世界遺産へ登録された記念碑

 

 さて、いよいよツアーの終点の「宮之浦ふるさと市場」に着いた。1時の位置である。宮之浦港の入り口である。世界遺産へ登録された記念碑がある。食事後、空港に行くバスが来るまで、すぐそばの「屋久島環境文化村センター」で展示や映画を見て、屋久島の自然について、改めて学んだ。


4.屋久島のいろいろ

 

トビウオ丼

 

 屋久島の名物の一つは「飛魚」である。お昼前に飛行機で着いたことから、レストランに行くと、「トビウオ丼」というメニューがあった。物珍しいので注文したところ、長い羽根(胸ビレ)を含めて一匹丸ごと唐揚げにしたものが出された。これは何だとばかりに眺めていると、「ヒレも食べられるよ」と言われた。そんなものかと思って、ヒレの先端からポリポリとかじり始めた。単調な味だから、掛かっていた甘ったるいソースがなければ食べられたものではない。やっとヒレを食べ終わったので、二つに切られて胴体に取り掛かる。外観はまるで秋刀魚だ。ところが、食べてみると実は白身で、あまり味がしない。ちくわや蒲鉾の材料としてなら良いが、揚げ物はさほど美味しいものではないとわかった。むしろ、泊まったホテルで出てきたように、生の切り身を酢の物にしたものの方が美味しかった。ちなみに、屋久島と鹿児島を結ぶ2隻の高速船のうちの1隻を「ロケット」といい、もう1隻を飛魚の愛称である「トッピー」というそうだ。

 

屋久島グリーンホテル玄関

 

屋久島グリーンホテルのガジュマル

 

屋久島グリーンホテル周辺の散歩コースが描かれた紙

 

屋久島グリーンホテルのハイビスカス

 

屋久島グリーンホテルのコエビソウ

 

 泊まったところは「屋久島グリーンホテル」で、インターネットを通じて予約した。大きな集落の「安房(あんぼう)」にあるから便利だろうと思ったが、その通りだった。島を一周する県道に面していて屋久島ランドへ行く道の起点である。駐車場には大きなガジュマルの木がある。チェックインするときに、ホテル周辺の散歩コースが描かれた紙を渡された。それを片手に少し散歩し、若干の花をカメラに収めることができた。夕食は「鄙にも稀」というと失礼かもしれないが、なかなか豪華で美味しくて、ダイエット中の身には逆にこたえた。鹿の生肉が出されて、「はて、どうしたものか。野生のエゾジカの生肉を食べてE型肝炎になった人がいるからな」と思ったからだ。ふと思い付いて、グツグツ煮立ったしゃぶしゃぶの中に一緒に入れたところ、やや硬めになったが、食べられた。

 

屋久島グリーンホテルの夕食

 

屋久島グリーンホテルの亀の手

 

屋久島グリーンホテルの亀の手を開いたところ

 

 それから、ホテルで、「亀の手」という珍味が出た。いかにも亀さんの手らしきもので、こんなもの食べられるのかと怪訝な顔をして眺めていたら、給仕してくれたお嬢さんが、食べ方を伝授してくれた。要は、蓋を開けるように二つに割って、その中身を食べるようにとのこと。そうしたところ、わずかな量だが、中身が出てきてそれを口にしたところ、カニのような味がした。「これは、ひょっとして海岸のテトラポットによくくっついているあれかな」と思って調べたところ、やはりそうであった。動かないから、当然、貝の仲間だろうと思っていたが、意外なことに、甲殻類つまり海老や蟹の近縁種だそうだ。だから、カニのような味がしたのは当然だった。

 

日本エア・コミューターのターボプロップ機

 

 屋久島への行き帰りに乗ったのは、鹿児島空港との間を結ぶ「日本エア・コミューター」というJALグループの会社のプロペラ機である。ターボプロップ機で、この種の機体に乗るのはYS11以来のことで、若い頃の国内出張時によく乗ったものだ。ブーンという騒音がうるさいことも含めて、とても懐かしかった。この鹿児島からのフライトは、晴れた日なら美しい海や海岸線が見えるはずなのに、残念ながら雲が垂れ込めて、空の旅を楽しむどころではなかった。それでも定刻通りに屋久島空港へと着陸した。着いてから時間があったので、周辺を散歩してみると、空港の端に、丸いお椀を上向きにしたような、遠目では直径20mくらいの灰色の設備があった。成田空港や羽田空港では見かけたことがない設備だなと思っていたら、翌日、その前を通るとき、バスのガイドさん曰く「屋久島空港には管制塔がありません。やって来る飛行機は全て有視界飛行で、これがその設備です。つまり、鹿児島を飛び立って島の近くに来ても、滑走路が見えなければ、島の周囲をぐるぐると回ったり、あるいはまた鹿児島に戻ったりします。」などという。いや、そんなことは全く知らなかった。でも、それは困った。明日は仕事なので、天候が良くなることを祈るしかない。しかし、案ずるより産むがやすしで、実際には、帰りは、時折、小雨がパラつく天候だったので、少々気をもんだものの、幸い鹿児島空港まで遅れることもなく帰ることができた。ただ、鹿児島空港から羽田空港まで行く乗り継ぎの飛行機が機材到着の遅れで1時間ほど遅延してしまった。

 かくして、屋久島への旅行は終わった。盛りだくさんの内容で、とても面白かったが、もう少し森林地帯の写真を撮りたかった。そういう意味で、次回また行く機会があれば、白谷雲水峡と、それから屋久島ランドの150分コースに行って、じっくりと写真を撮ってきたいと思っている。なお、屋久島には、熊も猪もハブもいない。蝮などのハブ以外の毒蛇はいるそうだが、危ないのはそれくらいで、季節が早かったせいか、それとも場所がよかったせいか、蚊や虻のような有害な昆虫もいなかった。ただ、南西部にはヤマヒルがいると聞いているので、気を付けたい。




(2018年5月20日記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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熊本への旅

宇土櫓

 

1.熊本地震から2年

 平成28年4月14日午後9時26分、熊本県を震源地とする震度7の大地震が起こり、しかもそれにとどまらずに翌々日の4月16日午前1時25分にも、やはり震度7の同程度の大地震が続いて発生した。これだけ大きな地震が立て続けに発生するというのは、明治期に科学的な地震観測が始まって以来、初めてのことであり、当初は最初の地震を前震、次のものを本震と発表された。ところが、その後、検討が進むにつれて、両者は別々の地震が連動して起きたものという見解が有力である。それはともかく、これだけ大規模な地震が引き続くと、最初の地震では何とか倒れずにすんだ建物も、2番目の地震には耐え切れずに倒壊したという例も枚挙にいとまがなく、改めて連続地震の怖さを思い知ることとなった。

 この一連の地震で、倒壊した建物の下敷きになったり、土砂崩れに遭ったりして、熊本県だけで50名の方々が犠牲となった。心からご冥福をお祈りする次第であるが、建物の被害も甚大なものとなった。中でも、熊本の象徴ともいえる熊本城が大きな被害に遭った。今回、地震発生から約2年後になるが、たまたま熊本へ行く用事があり、その機会を捉えて熊本城修復の様子と、それから地震直後に湧水が枯れてしまったと伝えられた水前寺公園の状況を見てきたので、記事にして書き残しておきたい。


2.熊本城の被害と修復

 

 熊本城修復(写 真)

 

修復中の天守閣

 

 熊本城の真正面にあるKKRホテル熊本に宿泊した。そこからは、熊本城の天守閣が真正面に見えるのであるが、現在は天守閣の両脇に高いクレーンが設置されて、天守閣自体もそのほとんどが工事用の幕に覆われている。ただ、僅かに天守閣上の鯱が2匹、頭を覗かせているだけである。これも、数日前までは全く見えなかったというから、観光客や市民向けのサービスかもしれない。何しろ、地震直後の写真を見ると、大天守閣の屋根瓦のかなりの部分が落ちてしまっていた。そこからこの状態に持って行くのに、2年という歳月を費やしたというわけである。ちなみに、天守閣自体は戦後1960年に再建された復元建築で、鉄筋コンクリート製であるが、それでも屋根瓦の多くが落下してしまった。

 

宙に浮いている修復中の小天守閣

 

 また、小天守に至っては、土台の石垣そのものが崩壊した。そこで、復元にあたっては石垣に重さをかけない構造にするということで、確かに小天守がふわっと宙に浮いているのがよくわかる。なんだか、シュールで不思議な光景である。それだけでなく、天守閣に地震の揺れを吸収するダンパーを組み込むなど、制振技術が取り入れられるそうだ。他方、三の天守と呼ばれて昔から残っている重要文化財の宇土櫓(うとやぐら)は、基礎部分を鉄筋コンクリートで固め、建物内部は鉄骨製の筋交いで補強していたことから、大きな被害はなかった。しかし、外からではあるが、城内を一周すると、崩れた石垣、その上にあった櫓の崩壊など、本当に痛々しい限りである。

 

崩れた石垣

 

崩れた石垣と建物

 

 ということで、熊本城全体の修復は容易なものではなく、今年3月に発表された計画では、震災直前の状態に戻す費用が約634億円で、これに耐震化などの費用が加わり、作業終了まで20年もかかるという計画だそうだ。


3.水前寺公園

 水前寺公園(写 真)

 

見事な大名庭園

 

富士築山

 

 水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん。いわゆる「水前寺公園」)は、熊本城近くの市役所前の電停から市電で20分もかからないところにある。熊本藩主の細川家の御茶屋があったところで、東海道五十三次を模した大名庭園があり、三代目の細川綱利の時には完成していたという。私は、全国の大名公園にはかなり足を運んでいるが、この公園に行くのは初めてだった。朝早く、開門して直ぐの時に入ったのだが、目の前に広がる見事な庭園を見て、感激した。左右に伸びやかに広がる湧水池の向こうには、優雅なコニーデ型の芝生の築山がある。その周囲の松の木と合わせて見れば、もう一見して富士山を模したものだとわかった。それも、単純な円錐形ではなく、ちゃんと山体の襞をも模しているなど、シンプルながらも非常に手が込んだ造りである。手間には躑躅の刈込みが置かれ、まだ少し赤い花を残す。そのバランスが絶妙で、一目で気に入ってしまった。

 

見事な大名庭園

 

富士築山

 

 水前寺公園のHPによると、貞享3年(1686年)に細川綱利公が定めたこの公園の十景は、阿蘇白烟、龍田紅葉、瀬田山雪、国分晩鐘、前林梅花、飯田夕陽、厳泉清流、健宮杉嵐、水隈乱螢、松間新月であるそうな。ただし、現代の公園のどの部分に対応しているかは、よくわからない。それはともかく、自分の目で見てみようと、左手の橋から周り始めた。とても古びた橋で、石の欄干が相当傷み、苔が染み付いている。だからゆっくりと渡ったが、歩むにつれて池の中の島の大きいのと小さいのとが位置を変え、景色も変わる。阿蘇から流れてくる清冽な湧水による池の水は澄みきっており、その中を緋鯉が優雅に泳いでいる。橋を渡り切ると神水の長寿の水があり、左手には出水神社(いみず)がある。この神社は、西南戦争後に細川家を祀るために造営されたという。その先には、緋色の木の鳥居を重ねた稲荷神社がある。まるで、伏見稲荷の小型版だ。

 

富士築山

 

伏見稲荷の小型版

 

 更に回り込んでいくと、やはり富士の築山が気になる。どの方向から見ても美しいし、手間に出てくる松の木が、見る角度を変えるたびに変化して、まるで旅をしているような気分になる。全く上手くできているものだ。そこを過ぎると、衣冠束帯姿の2人の銅像が並んでいる。左手が肥後熊本藩初代藩主の「細川忠利」公、右手がその祖父に当たる「細川藤孝(幽斎)」公である。それから能楽殿があり、池を更に回ると、古今伝授の間のある茅葺屋根の建物がある。

 

細川忠利・細川藤孝(幽斎)

 

七変化

 

 先に述べた平成28年4月の熊本地震によって、水前寺成趣園の池の水はほぼ干上がった状態になったそうだが、それから2年が経過した今では、そうした事件の痕跡すら見当たらない。ちなみに、日本三名園といえば、金沢の兼六園、岡山の後楽園、水戸の偕楽園だそうだが、こちらの水前寺成趣園は、今日のそれらを差し置いて評価できるくらいに、素晴らしいと考えている。東京の六義園や高松の栗林公園とほぼ同等に評価してもよいものと思う。



(2018年5月18日記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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マレーシアの政権交代

クアラルンプール市内


(1)今から20年前、当時の第4代首相が、副首相を投獄した。罪名は同性愛罪と職権乱用罪である。
(2)出獄したその元副首相は、十数年経って今度は第6代首相によって、同じ罪名で再び投獄された。
(3)20年後、92歳になった第4代首相は、第6代首相の腐敗を痛烈に批判し、野党連合を率いて選挙を戦った。大激戦の末に選挙に勝利して、第7代首相として返り咲いた。
(4)その第7代首相は、今度は自分が20年前に投獄した当時の副首相を、第8代首相にするために恩赦で出獄させ、同時に第6代首相の腐敗を追求しようとしている。


 とまあ、この数日間にマレーシアで起こった政治情勢と、その前の行き掛かりを簡潔に説明すると、このようなことになる。いずれも20年以上にわたる経緯がある話だけに、一筋縄では行かない。「事実は小説よりも奇なり」というが、この言葉は、まさにこういう場合に当てはまるのではないだろうか。ちなみに登場人物の名前は、

 第4代首相:マハティール・ビン・モハメッド(首相だったのは、56歳から78歳まで)
 第6代首相:ナジブ・ビン・ラザク(現在65歳)
 第7代首相:第4代首相と同じ(現在92歳)
 第8代首相:(予定)アンワール・ビン・イブラヒム(現在71歳)
である。(いずれも称号略)


クアラルンプール市内


 マハティール首相は、第4代首相だった頃、マレー人(人口の6割)、中国人(3割)、インド人(1割)という舵取りが難しい多民族国家をまとめ上げ、先進国型経済の構築と貿易の振興に力を注いだ。かくして現在の経済的繁栄の基礎を築き、国民1人当たりの所得で、もうすぐ先進国入りを果たすまでに育て上げた。その過程で「ルック・イースト・ポリシー」(日本に学べ)という政策(東方政策)を展開し、日本の方もこれに答えて、自動車産業の育成、下請け中小企業への技術指導、1万人以上に及ぶ留学生の受入れなどを行ってきた。また、マハティール首相は現地の日本人社会にも協力的で、日系企業への配慮も手厚く、更には新聞社主催の日本でのセミナーにも、毎年のように来ている(今年も6月11日からを予定)。

クアラルンプール市内の夜景


 マレーシアという国は、人種問題が政治の底流に横たわっている。歴史的な経緯によって、そもそもの社会構造が、三大人種から成っているからだ。イスラム教で多数派のマレー人、実利主体で経済力のある中国人、極めて有能な医師、弁護士、記者などを輩出するインド人である。だから、総じて単一民族の日本では全く考えられないほどの人種間の緊張が、陰に陽にある。大雑把に言えば、貧しい大多数のマレー人と、経済を独占している中国人との対立である。その対立が極限に達したのが1969年5月13日事件である。その3日前に行われた総選挙を契機に人種暴動が発生して、200人近い死者と500人ほどの負傷者が出た。主に中国人が犠牲となった。これを契機に、経済力の劣ったマレー人を優遇する政策(ブミプトラ政策)が始まり、大学への入学や海外留学、民間マンションへの入居、外国からの投資の優遇など、あらゆる方面に広がった。環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の議論でも、この政策が大きな問題となり、段階的な見直しの方向となったと聞いている。

クアラルンプール市内のショッピングモール


中国系の人が大好きな飲茶


 マハティール首相は、最初に首相に就任する前に、「マレー・ジレンマ」という本を出版し、こうしたマレー人の現状を憂い、鼓舞するような内容だったので、マレー人優遇政策を更に強化するのではないかと懸念する向きもあった。しかし、マハティール首相が行ったのは、確かに民族主義的な要素はあったものの、特に中国人を排斥するようなこともなく、むしろ成長を通じて経済全体を底上げする政策をとった。このため、外国からの高水準の投資を呼び込む結果となって、経済は高度成長を続けたことから、マハティール首相はマレー人だけでなく中国人にも支持されて、20年以上もの長期政権を維持することができたのである。

マハティール首相。ストレーツ・タイムスのインタビューより


 もう一つ、マハティール首相が名を上げたのは、97年のアジア経済危機への対応である。きっかけは、アメリカの投資家ジョージ・ソロスなどが参加するヘッジファンドが仕掛けた東南アジア通貨の空売りである。これにより、タイ、韓国などは経済がIMF管理に移行して塗炭の苦しみを味わった。ところがマハティール首相は、IMF管理を断固拒否して、通貨も固定相場制を維持した。これは経済の常識に反すると専門家の間では散々の評判だった。実は、私もそう思っていた。というのは、周辺諸国が変動相場制なのにマレーシア一国だけが固定相場制だと、そこに歪みが集まって、固定相場など、直ぐに維持できなくなると考えたからだ。ところが、案に相違して、この政策は奏功した。固定相場によって資源や工業製品の輸出入が安定的に可能になるなど、マレーシア経済は早期の回復を遂げた。この一件で、世界はマハティール首相に一目を置くようになった。

 マハティール首相は、2003年、首相職を第5代となるアブドゥラ・ビン・アフマッド・バダウィに譲り、与党バリサン・ナショナル(与党連合・国民戦線)の指導的立場も降りた。そうしたところ、バダウィ首相は、6年後に辞任し、第7代首相ナジブ・ビン・ラザクにその座を譲った。ちなみに、ナジブ首相は、第2代首相アブドゥル・ ラザクの長男である。ところが、ナジブ首相は腐敗と縁故主義で、次第にその評判を落としていった。その典型例が1MDB事件である。1MDB( 1 Malaysia Development Berhad )は、政府系の投資会社であるが、2015年7月、ウォールストリート・ジャーナルがナジブ首相の銀行個人口座へ7億ドルが振り込まれたことを報じた。ナジブ自身は「これはサウジアラビアの王族からの資金」と説明したが、その釈明を信じる人など、誰もいない。これれを契機にパナマ文書などをも利用した国際捜査が行われ、40億ドルもの資金が流出して中東やマレーシアの高官の口座に振り込まれたといわれる。

 2015年8月には全国でナジブ首相の退陣を求める大規模デモが行われた。ユーチューブで私もその様子を見ていたが、参加した人々は何万人にものぼり、あらゆる年代の老若男女をはじめお母さんに連れられた幼児に至るまで、いずれも黄色いシャツを着て整然と抗議デモを行っていた。中には、サウジアラビアの白い民族衣装を着て、ナジブ首相にドルを手渡すパフォーマンスをする人もいたりして、思わず笑ってしまうような平和的なデモであった。これに対しナジブ首相は、強権的手法で危機を乗り越えようとし、赤シャツを着た集団を黄シャツのデモ隊に対決させたり、閣内の反対を押さえるために内閣改造を行い、政府批判を強めるジャーナリストらを逮捕し、疑惑や不正を報道する新聞の発行を禁止したりした。その一方で、悪化する財政を立て直すため、庶民の生活を支える各種補助金を削減するとともに、2015年から消費税(GST。税率は6%)を導入した。これはただでさえ苦しい庶民の懐を直撃して、住んでいる人によれば、実感として食料品の値段がこれ以降の3年間で倍になったと言われる。加えて、マレーシアの一般民衆の気持ちを逆撫でしたのは、ナジブ首相の再婚相手のロスマ夫人である。かなり派手な人柄で、高価な装飾品、ブランド物を身につけ、またそれを見せつけるような言動をするので、すっかり庶民の敵のようなイメージが作り上げられてしまった。いわば、マレーシア版のイメルダ・マルコス夫人というわけである。

 マレーシアは、その建国以来、与党のバリサン・ナショナル(BN:与党連合・国民戦線)が政権を担ってきた。ところが、今回の総選挙(2018年5月9日)に際して、齢92歳にもなっていたマハティールは、与党を飛び出し希望連盟(PH)という名の下に野党4党(注)を結集し、反ナジブ、反腐敗と縁故主義を標榜して、与党に挑んだ。これに対するナジブ政権の選挙妨害は、それはそれは大変なものだった。マハティールは自らの政党(マレーシア統一プリブミ党)を作っており、選挙の登録団体とするために選挙直前にその旨を当局に届け出たが、当局から登録を拒否されただけでなく活動停止命令まで受けたため、野党連合・希望連盟のロゴを使って、無所属で立候補することを余儀なくされた。また、投票日直前には政権側はフェイクニュース規制法を成立させた。私が現地のユーチューブを見ていると、マハティールが選挙集会で「ナジブ政権は、腐敗している。例えば1MDBだ。あの巨額の金はどこに行った?」などと一席ぶっていたところ、いつの間にか制服を着た3人の警官が背後に現れた。そして、「フェイクニュース規制法に基づいて、発言を禁止する」などとやっている。まるで明治時代の日本のようだとびっくりしてしまった。都市の住民は政治意識が高くて反腐敗・反政権寄りになりやすく、政府の支援が手厚い地方は政権寄りになりやすい。そこで選挙区を改編して、地方と都市の一票の格差を9倍にした。その他、これは日本の新聞にも載っていた話だが、マレー人を特定の地域に住まわせて、かなりの手当を出している。まるで、地域ごと票を買収しているようなものだ。いやもう、すごいとしか言いようがない。

(注)希望連盟(PH)は、4つの政党から成る。マハティールのマレーシア統一プリブミ党(PPBM)、アンワールとワン・アジザの人民正義党(PKR)、ペナン州首相で華人の民主行動党(DAP)、マット・サブの国民信託党(AMANAH)である。

 選挙終盤にマハティールに対する記者会見が行われた。ある女性記者がこう質問した。「あなたは、92歳という高齢だ。そんな人が国政を担えるのか。」これに対してマハティールは、こう答えた。「この選挙が終わってすぐ、7月には私の誕生日がくる。その誕生パーティに、あなたをお招きしよう。」と。ユーモアを交えた素晴らしい答えだと感心してしまった。ビデオでマハティールの様子を見ていたが、さっさと歩く姿はまるで60歳台だし、受け答えはかつてのバリバリの首相時代と変わらない。ともかく、この年齢で活躍できるなんて、「中年の星」どころか、「後期高齢者の太陽」といっても良いくらいだ。

 選挙に劇的な勝利をおさめたその翌日の5月10日夜、国王からの首相任命を経て開かれた記者会見でのマハティール第7代首相の発言は次の(1)から(7)まで、選挙の翌々日の5月11日の発言は、(8)以下の通りである。いずれも、正鵠を射て立派なものだ。

 (1) 希望連盟(PH)への国民の強い支持の広がりに感謝を申し上げる。マレーシアの歴史上、ここまでの熱狂的な支持を得たのは希望連盟が初めてである。予想を上回り120議席以上を獲得して単独多数を確保し、政府を構成することになった。
 (2) 私は、長年の間、ビジネス・フレンドリーな政府を目指して「Malaysia Inc.」という標語を採用していることからわかるように、これからはそうした政策を実施する。国民が懸念している財政及び経済運営の問題に集中して取り組む。経済界は株価を上げて結構であるし、通貨リンギットは切り下がらないようにできるだけ安定させるように努める。希望連盟には専門家がいる。私自身は経済の専門家ではない。しかしながら、人の話を良く聞いて判断してきた人間である。
 (3) ラフィダ・アジズ元通産相、ダイム・ザイヌディン元財務相などが投票前に与党から転じて希望連盟への支持を表明し、統一マレー国民組織(UMNO)を除名された元閣僚たちのその心意気は称賛に値する。
 (4) 与党連合・国民戦線は政府の負債は総額8000億リンギットと言っていたが、隠された負債があり、総額は1兆リンギットにのぼると言っても過言ではない。1MDB問題で不正に流出した資金は、米国、スイス、シンガポールなどから回収できると考える。これら資金は政府の負債の返済の一部に使える。これからは法に基づく統治を行い、投資家の信頼を得る。お金がこれ全てといったような金権政治はもう終わらせる。財政再建のために、巨大すぎる事業は再検討し、借り入れの利息が高すぎる点など条件を再交渉し、財政負担を和らげるよう努める。
 (5) 抑圧的で不公正な政策、とりわけフェイク・ニュース規制法と国家治安維持委員会法(NSC法)については、見直すことにする。
 (6) 可能な限り速やかにアンワール・ビン・イブラヒム元副首相が、国王から完全な恩赦を得て政治活動に復帰できるよう努める。
 (7) 明11日は休日としたが、私は休まない。希望連盟を構成する党の総裁会議を開催し、新政権の閣僚ポストの配分について協議する。
 (8) 前政権下で膨れ上がった省庁の数を10に再編する。マレーシアは通商立国であり、国内市場は小さいので、アジア、欧米、その体制に関わらず全ての国と市場に対してオープンであるが、いかなる大国の影響を受けるものではない。消費税(GST)の廃止など、選挙中のマニュフェストを実行する。
 (9) 現在収監中のアンワール元副首相については、国王の恩赦を得たので、法的プロセスを経て速やかに釈放されることになろう。

 このうち、(9) アンワール元副首相の扱いについては、注釈が必要である。元々、アンワールはマハティールが第4代首相時代にその才能を見込んで副首相に取り立てた人物である。ところが、アジア通貨危機に際してIMFに肩入れしようとしてマハティール首相と対立したほか、青年同盟出身で若手のマレー人に人気のあったアンワールがこの機に乗じて首相の座を狙い、それがマハティール首相の逆鱗に触れたのではないかと私は考えている。そうしたある日、アンワールは、イスラム国家では罪に問われる同性愛罪のほか職権乱用罪で、投獄されてしまった。しかしながら、アンワールは未だに一部のマレー人に支持されており、このため投獄中のアンワールに代わってそのワン・アジザ夫人が野党(国民正義党。その後、人民正義党)を結成して釈放運動を行っていた。同党は今回の希望連盟(PH)という野党連合を結成する3党のうちの重要な1党であることから、マハティールは「敵の与党に対する敵はまた味方なり」ということで、かつての政敵と組んだということなのだろう。このあたり、マハティール首相はなかなかの現実主義者であるし、ワン・アジザ夫人の方も、日本的に言えば節操がないということになるけれども、確かに夫を早期に出獄させる手筈を整えることができたのだから、大したものだと言ってもよいかもしれない。ちなみに、アンワールはもちろんマレー人だが、ワン・アジザ夫人は実は中国人で、マレー人の夫婦に育てられたという。医学校では文字通りのトップ・スチューデントだったそうだ。ここにも、マレーシアの人種問題の複雑さが見てとれる。ついでに言えば、マハティール自身も、父はインドのケララ州から移住してきたイスラム教徒である。

 ナジブ前首相は、選挙の翌日の深夜、ツイッターに「短い休暇をとるため、家族で外国旅行に行く」と書き込んだ。そしてプライベート・ジェット機を用意したが、外国へ逃亡すると感じた市民がこれを阻止するため続々と空港へ詰めかけたので、とうとうナジブ一家は空港には姿を現さなかったという事件もあった。老練なマハティール首相はこうした動きを察知して、12日、ナジブ前首相とロスマ夫人を出国禁止処分にした。かくして、世紀の政権交代の波は、しばらく収まりそうもない。


マハティール首相。ストレーツ・タイムスのインタビューより


 いずれにせよ、私は、「後期高齢者の太陽」を心から応援したい。ちなみに、現地の報道を見ていると、レポーターが私の聞きたかったことをマハティール首相に質問していた。女性レポーター曰く「あなたは、年齢の割には体型も素晴らしく、お肌も色つやがよくて、そして髪の毛もふさふさとしている。それは、なぜなのか、教えて下さい。」これに対して、マハティール首相が答える。「大事なことは、食べ過ぎないことだ。(Not overeat)。母からこれを教えてもらって、感謝している。美味しい食べ物を前にすると、誰しも食べたくなる。そこを我慢して食べない。こうやって自分を律することが大事だ。(Discipline yourself)」。なるほど。ナジブ前首相だけでなく、全世界の汚職まみれの政治家に、じっくりと聞かせてあげたい言葉である。



【後日談】ナジブ前首相宅の家宅捜索

 現地の大衆紙によれば、5月18日頃、警察がナジブ前首相宅に家宅捜査に入ったところ、金の延べ棒、ドル札の現金、1個1800万円もするハンドバッグなどが続々と出てきたそうである。





(2018年5月12日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:34 | - | - | - |
松江への旅

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 松江への旅(写 真)





1.目的は3ヶ所

 ゴールデン・ウイークの前半、かねてから行きたかった島根県安来市の足立美術館、国宝松江城、松江市大根島の尚志園を、二泊三日の行程で回ってきた。足立美術館は第一級の日本庭園で著名であり、松江城は国宝五城のうち最も新しく平成27年に指定されたその経緯が劇的なものであり、大根島の尚志園はこの時期にだけ繰り広げられる「池泉牡丹」つまり池の全面に3万輪もの摘み取られた牡丹の花を浮かべるイベントで有名である。いずれも一度は行って写真を撮ってきたいと考えていた。

 また、数年前に我々一家が欧州旅行をしたときに貯まったマイレージが、今年の夏で期限を迎えるので、それまでに航空券に引き換えたいという事情もあった。旅客数の多い旅行シーズン期間なので、飛行機の予約は難しいかも知れないという気もしたが、案ずるより生むがごとしで、すんなりとANAの羽田空港と米子空港の往復航空券を確保できた。また、松江と米子の駅前のビジネスホテルも、ネットで簡単に予約することができた。その理由は現地に行ってみてわかった。要は、人口も観光客の数も、東京で思っていたよりもずーっと少ないのである。地方で少子高齢化がこれほど進んでいるとは思わなかった。


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 今年の4月から、ANAの国内線の機内では、WiFi接続が無料になった。羽田空港を出発して試しにiPadで接続してみたところ、無事にインターネットに繋がった。ただし、速度は非常に遅い。自宅での接続速度が自動車くらいだとすると、ちょうど自転車程度だ。特に写真をメールに添付すると、なかなか送ってもらえない。どうしたのかなと思っているうちに、タイムアウトになってしまった。もっとも衛星経由だし、そもそも無料なのだから、それくらいのことで文句を言ってはいけない。文字メールを送ることができるだけでも、良しとしよう。でも、近い将来、利用者がもっと増えたら、これでは実用に耐えられないかもしれない。


2.俄か管制官

 ところで、機内でインターネットに繋がっていることを良いことに、iPad上で、フライト・ライブというアプリを動かしてみた。すると、これがめっぽう面白いのである。地図上に、その時点で飛んでいる飛行機の便名、航空会社名、使用機材、出発地と目的地がわかる。しかも、地図上で飛行機マークが時々刻々移動するので、どこを飛んでいるのかが一目瞭然だ。もっとも、時々、GPSでの本機の現在位置と、その飛行機マークがズレることもあるが、それもご愛嬌だ。これまでは飛行機の中から地上を眺めて、「この地形なら静岡だ。」などと山勘で現在地を判断していたが、フライト・ライブならその時点での正確な飛行位置がわかるので、便利である。


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 しかしながら、良いことばかりではない。例えば、私が乗っている飛行機が福井県の三方五湖付近を東から西に飛行中、別の飛行機がそれと交錯する北から南に向かうコースで飛んでくるではないか。関西空港に向かう大韓航空機だ。この距離、このコースで同じ高度なら、ぶつかりはしないかと、肝を冷やす。しばらく見守ると、2機のコースは一瞬、重なったかに見えたが、幸い何事もなく再び離れていった。良かったが、その一瞬、俄か管制官になった気分になる。なるほど、この仕事は、なかなか大変だ。

 しかし、よく見ると、同じ方向に向かう飛行機は、いつの間にか等間隔に並んで飛行している。反対方向もまた然りで、どうやら空中に見えない回廊を設定して、そのトンネルの中を飛んでいるようだ。してみると、これと交錯するルートがあったとしても、そもそも空中回廊の高さが違うのかもしれない。それをこのフライト・ライブは、平面的に上から見ているだけなので、回廊の高さの違いが認識できず、したがって先程のような要らぬ心配をすることになったのだろう。今度、航空関係の専門家に会う機会があったら、管制の手法を聞いてみようと思う。

 面白いのは羽田空港周辺で、一見バラバラで無秩序に散らばっていた飛行機の群れが、気がついてみると、これまた等間隔の距離を置きつつ渦のようなカーブを描いて、次から次へと空港に着陸している。見事なものだ。羽田空港に降りる螺旋形の空中回廊でもあるのだろうか。


3.米子にて

 お昼前に米子空港に降り立って驚いた。辺りがすっきりしているというか、ターミナルビルのみで、周辺には何もないのである。近くのJR米子空港駅に行くとレストランくらいあるかもしれないと思って、延々と歩いて行ってみたら、びっくり仰天した。切符の自販機とトイレがあるだけで、他は何にもない。ターミナルビルでレストランを探すべきだった。仕方ないと、そのまま駅で待っていた。しばらくしてやってきた車両はディーゼル気動車で、それもたった1両。しかもボタンを押さないと扉が開かないではないか。加えてこの車両の車体にも、そして終点の米子駅にも、私の趣味に合わない妖怪の漫画が描かれている。ゲゲゲの鬼太郎だ。「幾ら地元の有名人の作品だからと言って、ただでさえ物寂しい雰囲気の中で、わざわざ妖怪の漫画を描かなくてもよいのに。」などと、お化けが嫌いな私などは、思ったりする。


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 ところが、地元の皆さんの感覚は、おそらく、「漫画やNHKの朝ドラで、地元を有名にしてくれた作家は郷土の誇りだから、その作品を堂々と載せている。」ということなのだろう。まあ、そういう考え方もある。そもそも原作者の水木しげるさんは、太平洋戦争で苦労した挙句に片腕を失い、その不自由な身体で頑張って有名な漫画家になったのだから、大いに尊敬に値する人だと思う。ただ、私には、どうもあの妖怪漫画が体質に合わないというか、はっきり言ってしまえば、感覚的に気持ちが悪いのである。振り返ってみると、そもそも少年時代からお化けは嫌いだった。三つ子の魂百までというが、この感覚は永久に治りそうもない。

 そういうことで、米子空港と米子駅の滞在はそこそこにして、足立美術館のある安来市にJR山陰本線のディーゼル気動車で向かった。途中、「そういえば、富山県高岡市から出るJR氷見線の電車の車体にも、忍者ハットリくんの絵が描かれていたし、高岡駅前にも、ドラえもんのキャラクターのオブジェが並んでいた。あそこも、藤子不二雄さんの片方の出身地だったなぁ。」と思い出し、「あれには全く違和感がなかったけれど、やはり、お化けとどらえもんというキャラクターの差かなぁ。」と考えたりもした。安来駅から、足立美術館のバスに乗車した。


4.足立美術館


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 足立美術館の創設者、足立全康氏は、明治32年に、現在の安来市古川町に生まれた。小学校卒業後すぐに生家の農業を手伝ったが、いくら働いても貧しい農業を見限り、商売の道に進むことにしたという。最初の仕事は大八車で木炭を運搬するというもので、そのついでに近在の家々に炭を売り歩いた。それから、繊維問屋、不動産業など色々な事業に携わって成功を収めた。その一方で、美術に強い関心を抱いて日本画の熱心なコレクターになった。それとともに、庭造りへの強い関心も相まって、71歳の時に財団法人足立美術館を創設したという。特に横山大観の作品、「紅葉」、「雨霽る」、「海潮四題・夏」などを蒐集したときの印象的なエピソードが、同美術館のHPに掲載されている。私が訪れたときは、横山大観、菱田春草など、日本画で和服美人の絵のシリーズが展示されてあって、ここまで繊細に描けるものかと感じ入った。

 さて、絵画の鑑賞はほどほどにして、写真を撮ってもよい日本庭園に向かう。苔庭 → 枯山水庭 (その先に亀鶴の滝) → 白砂青松庭 → 池庭 → 寿立庵庭 という順路で見て回った。一言でいえば、実に端正で一分の隙もない庭だ。あらゆる造形物が計算され、計画的に美しく配置されている。だから、どの方向から写真を撮っても、それなりの構図になる。確かに、15年連続で日本一の庭に選ばれた理由が分かる。今は新緑の季節で緑が生き生きしているが、秋になると真っ赤な紅葉がさぞかし美しいだろうと思う。


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 この庭を見て、類い稀な造園のセンスを感じさせるのは、白砂青松庭を見るときに手前にある「Y」字型の樹木である。素晴らしい庭を存分に鑑賞しようと思ったら、手前のこんな樹木は真っ黒に見えて視界を遮るので単なる邪魔な存在に過ぎない。ところが、逆にこの樹木があるからこそ、庭に奥行きを与えて、その存在感を増しているように思う。

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 それにつけても、ふと思い出すのは、大学の教養学部時代の美術史の授業である。もう半世紀も前のことなのに、この「Y」字型の樹木を目にして、急に記憶が蘇った。その時、教授はこう語った。

 「日本の美術というものは、自然をそのままに受け止め、自然の要素を頭の中で繋いで、全体としてその美を見いだすところに特徴がある。これに対して、西洋の美術は、自然を征服し、人間の前に跪かせる。例えば、日本庭園を見るとよい。自然の風景をそのままに、要素を厳選しながら自然を再現しようとする。これに対して西洋庭園は、基本的には緑の芝生を一面に敷き詰めないと気が済まないスタイルだ。

 終戦直後、進駐軍の将校がやって来て日本家屋を接収し、そこに住もうとしたとき、彼らが最も居心地が悪いと感じたのは、数枚に渡って描かれた襖絵である。襖の黒い枠で仕切られているのに、あたかもそれがなかったように松の木が枝を広げている。日本人は頭の中でその枠を消して見るのだが、その将校らはそれができなかったようで、遂には黒い枠もろとも白いペンキで塗り潰してしまった。ここに、日本人と西洋人の世界感の違いが現れている。日本人にとって自然は自分もその一員として共生すべき存在だが、西洋人にとって自然は征服すべき存在なのである。」


 かくして足立美術館の庭は、ずっと私の頭の中で眠っていたこういう記憶を引き出してくれた。やはり、この庭は一流の存在である。はるばる来て良かったと思った瞬間である。


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5.夜の松江城

 安来駅でJRの列車を待っている間、安来駅舎の中をブラブラと見て回った。お土産売り場や、市の観光関係の職員さん達が詰めているブースがある。宣伝しているのは、もちろん安来節のどじょう掬いの踊りだ。その姿を描いたユーモラスな人形が、其処此処に置いてあり、ぱっと見ただけで笑えてくるものばかりだ。実演は、あの足立美術館の近くにある「安来節演芸館」で行っているらしい。でも、足立美術館であの「日本美術の粋を集大成した聖なる庭や日本画」を見ていたく感心した直後に、「田圃や川でドジョウを掬う様を描く滑稽で俗な踊り」を見たくなる人がどれだけいるのか、私にはよくわからない。要するに、客層が違うから両立は難しいのではないかと思うのである。ただ、地元の名物を何とか普及宣伝したいというその熱意と心意気には、大いに感心した。旅行会社のコースに入っているか、パンフレットを注意してみてみたい。


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 松江に着いたのは、午後5時半である。ホテルにチェックインし、カメラを肩に掛けて伊勢宮町に向かった。というのは、事前にインターネットで調べて、松江城下の市街地にある老舗の旅館建築(登録有形文化財)を使った「巴庵」という料理屋に行くつもりだったからである。島根和牛のすき焼き鍋を注文していた。この旅行唯一の豪華な食事である。私は普段からダイエットの成果の維持のために、食事のカロリー量をコントロールしている関係で、食事はついつい控えめになってしまっている。だから、旅行中の一度くらいは地元の名物を味わって、記念にしつつ日頃の節制を一時忘れてしまいたいというわけだ。

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 午後6時前に着いたので、早いかも知れないと思ったが、入れてくれた。二階の個室に案内された。細い桟の入った引き戸、裸電球、衣紋掛け、ずっしりとしたテーブルが、この建物の年季を感じさせる。「お飲み物は?」と言われたが、ダイエットのためにアルコールも控えているので、柚子酒をソーダで半々に割ったものを頼む。これくらいで、ちょうど良い。やがて、すき焼き鍋がやってきた。島根和牛は、私の手のひらくらいの大きさのものが3枚、ただしすき焼き用のため、厚さは薄い。野菜は、ネギ、キャベツ、コンニャク、豆腐などと、関東のすき焼きの材料と全く同じだ。

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 給仕のお兄さんが、料理を作ってくれた。岡山から来ているそうだ。「自分は他の都道府県に行ったことがないので、行ってみたい。」と話す。「まだ学生さんなのだから、これから幾らでも機会があるよ。要は、好奇心つまり『知らないところへ行きたい。そして新しいものを見てみたい。』という気持ちの問題だね。」などと会話を交わす。料理の方は、まず牛脂を引き、肉を入れ、赤い色がある程度変わったところで醤油と昆布汁、野菜を入れて、味を整える。塩っぱいと困るなと思いつつ、まず仕上がった牛肉を生卵に浸け、口に運んだ。すると、香ばしい香りが口いっぱいに広がり、非常に美味しい。なるほど、料亭だけのことはある。同時に注文した豆腐サラダなるものは、いささか量が多すぎたし、掛かっているソースも多すぎた。まあ、旅行中なので野菜不足を補うという意味で、全て平らげてしまった。

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 巴庵に小一時間ほどいて、暮れなずむ松江の街に出た。このままホテルに帰るのも、芸がない。「よし、風が冷たいが、できれば松江城のライトアップを撮って来よう。」と思ってインターネット検索で調べると、ライトに照らされた松江城の写真があった。これは撮れるかもしれないと、グーグル・マップで現在地から松江城までの道順を調べたところ、徒歩20分である。行くことにした。大橋川に掛かる松江大橋を渡り、しばらく川に沿って行くと、ライトアップされた威厳のある建物に出会った。「カラコロ工房」というらしい。重要文化財のような建物にしては妙な名前だと思って検索すると、ここは元日本銀行松江支店の建物で、同支店が廃止された後は、体験工房に使っているらしい。カラコロというのは、小泉八雲が松江大橋を渡る人々のカランコロンという下駄の音に惹かれたと記述したところから名付けられたという。

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 さて、かなり暗くなって来た。先を急ごう。島根県庁の建物の前を通り過ぎた。「竹島を取り戻そう」という電光掲示板と竹島のモニュメントが見える。更に行くと、いよいよ城のお堀の角まで来た。対岸の石垣の上の櫓がライトアップされている。城内に入ると、また銅像がある。これは、松江城を築城した堀尾吉晴公のようだ。「國宝 松江城」という石碑がある。高知城の場合は歴史的表示だっだが、今度は本物だ。階段を上がって行く。暗闇の中だと、かなり急に感じる。やっと天守閣に通じる門まで来た。たまたまいた守衛さんから「この門は7時半に閉まるので、もう少し良いですよ。」と言われた。時計を見たら、7時15分だ。

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 急いで門の中に入ると、松江城天守閣がライトの光の中に浮かんでいた。天守閣を斜め脇から見上げる形の、いつも写真で見る姿だ。ところがカメラの水平線を天守閣の一番上の線に合わせると、土台の線が不自然に傾く。逆に土台の線を水平にとると、今度は天守閣の線が傾き過ぎる。正解はその中間にあり、天守閣の横線も土台の石垣の横線も、不自然さを感じさせないような写真にしなければならない。こういうところは、写真の奥深いところだと思う。手早く撮って、帰途に着いた。途中で、明治の開花期のような趣きの建物があると思ったら、「興雲閣」と書いてあった。明治天皇行幸時の御宿所として建設された擬洋風建築の迎賓館だという。


6.松江城

 松江城は、私にとって国宝五城(姫路城彦根城松本城犬山城、松江城)を巡る旅の最後を飾る記念すべきお城である。実は50年ほど前の学生時代に、島根県浜田市の友達の実家を訪ね、その帰りに出雲大社のほか、ここまで足を運んで松江城を見て、小泉八雲の旧居を見物したことがある。つまりは半世紀ぶりの再訪というわけだ。そのときは、松江城は、戦前は国宝に指定されていたものの、昭和25年の文化財保護法では築城年を示す文献が見当たらないとして国宝から外され、重要文化財として指定されるにとどまっていた。ところが、平成27年になって築城年を記した祈祷札が見つかり、それが天守閣の柱の本来の位置にぴったりとはまったことから、国宝に再指定されたという劇的なエピソードがある。


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 さて、本日は朝からの松江城の撮影だ。幸い好天に恵まれ、真っ青な空の撮影日和である。昨夜と同じく階段を上がって行って門の中に入ると、天守閣が現れた。大きさは、もちろん姫路城には比べるべくもないが、コンパクトにまとまった端整なお城であり、凛とした雰囲気がただよう。国宝五城の中では、松本城に近い。ただしあちらはお濠に囲まれているが、こちらはそうではなくて、天守閣そのものが、地面にデンと鎮座している。建物について見ると、まずは正面の入母屋破風とその下の華頭窓が優雅な印象を与えていて、次に正面入り口に出ている附櫓が親亀に対する子亀のような感じで微笑ましくなる。天守閣の頂きには左右に鯱鉾があるが、これは木彫の銅張りだという。写真を撮っていった。観光絵葉書になるような写真が撮れた。

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 天守閣の中に入った。五層になっている。急な階段を上がって行くと、木組みが美しい。最上階にたどり着いた。するとこの城は、建物の中から直接、外の風景を見ることができることに気がついた。例えば同じ国宝の犬山城は、最上階の周りにある、当世風に言えば「ベランダ」部分に出て外を見るようになっている。それがこの城にはベランダ部分がない。代わりに窓の開口部が大きい。その分、建物の維持管理が大変ではないかと心配になる。もちろん、外の風景は素晴らしい。見飽きないで、しばらく眺めていた。下の芝生広場の緋毛氈の上で、2人の子供を並べて写真を撮っているカップルがいる。実に微笑ましい風景だ。

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7.小泉八雲旧居

 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、数奇な運命をたどった作家である。記念館における展示に書かれていたことを思い出すままに書いていこう。ラフカディオは、1850年に、アイルランド出身の軍医補としてギリシャに赴任中の父チャールズと、ギリシャ・キシラ島の出身の母ローザとの間に生まれた。2歳の時に両親に連れられてアイルランドのダブリンに移ったものの、母ローザは現地の気候風土に馴染めなかったのか、精神を病んで単身ギリシャに戻り、二度と息子に会うことはなかった。母に見捨てられた形のラフカディオは、厳格な大叔母の下で育ち、孤独な少年時代を送ったという。

 16歳の時に、遊んでいたときの事故で、ラフカディオは左目を失明してしまった。不幸は続く。19歳の時には、頼みの大叔母が破産してしまった。このため一人でアメリカへの移民となり、赤貧の生活を送るが、たまたま入ったシンシナティの新聞社で文才が認められて、ジャーナリストとして独り立ちした。その後、ルイジアナ州ニューオーリンズで働き、さらにカリブ海のマルティニーク島へ移り住んだ。同島では現地のブードウー教に魅せられたという。ニューオーリンズ時代に万博で目にした日本文化に興味を持つようになり、さらにはニューヨークで読んだ古事記の影響で来日を決意し、1890年4月、横浜に降り立った。これは、新聞社と契約して(今ならカメラマンだろうが、当時のことだから)挿し絵作家とペアで来日したのだが、船中でその新聞社からもらう報酬を比較してみると、自分の方が低いことがわかったラフカディオは、憤慨して辞表を出してしまった。


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 ところが幸いなことに、その年の8月に、松江の島根県尋常中学校に職を得て英語教師となった。そこで、ある時高熱を出して病の床に伏せっていたところを、士族の娘の小泉セツが甲斐甲斐しく世話をしてくれて、二人は結ばれたという。セツは、非常に教養があり、各地の物語にも良く通じていて、それがラフカディオに大きなインスピレーションを与えたという。ただ、松江のような寒い土地は苦手だったようで、住んでいたのは僅か1年半余り、それから熊本第五高等中学校に赴任し、次に神戸クロニクル社に勤め、1896年9月から東京帝国大学文科大学講師として英文学を講じたという。同年には小泉セツと正式に結婚して、日本に帰化した。二人の間には、三男一女が生まれた。

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 ということで、ラフカディオ・ハーンは、日本でその54歳の生涯を終えることになったが、こうした経歴をみると、彼が好んだ怪談話の背景が、ようやくわかったような気がする。また、彼の肖像画は常に右顔を向けているのは不自然だと思っていたら、これは失明した左目を隠していたのだという。なるほどと納得した。記念館の隣が旧居で、私にとっては半世紀ぶりの再訪だった。昔の記憶とほぼ同じだったが、彼の机のレプリカが置いてあった。机はものすごく高いが、椅子はむしろ低い。彼の身長は高々160cmほどだったので、これはなぜかというと、彼が極度の近視だったことから、こういう背の高い机でないと、読み書きができなかったためだという。


8.堀川遊覧船


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 小泉八雲旧居から、武家屋敷が連なる塩見縄手通りと茶道の明々庵を見物し、観光用のレイクラインバスで、ふれあい広場まで行った。そこには、堀川遊覧船の発着場があって、それに乗り込んだ。出発する前に、「このコースには16箇所の橋がありますが、うち4つは高さが低いので、ぶつからないように、このオレンジ色の屋根が下がります。両脇の舷側の支柱も下がるので、気をつけて下さい。それでは練習しましょう。」と言って、皆でやってみた。屋根が下がり、それが思ったより低いので、女性は前向きに上体を倒せばよいが、男性陣はそんなに身体が柔らかくないので、恥ずかしながら仰向けと相成った。一緒にいた若い女性は「こんなアトラクションがあるなんて、面白い」とはしゃいでいた。

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 その小舟が出発した。一周3.7kmである。公式HPでは、「松江城を取り囲む堀川は、松江城築城の時につくられました。船は堀川を約50分かけてゆっくりと遊覧します。船上から眺める松江の街並みはどこか懐かしく、水辺を彩る草花や水鳥が四季を感じさせてくれます。16もの橋をくぐり抜けるときは橋の高さにあわせて屋根が下げられ、乗り合わせた人たちとの語らいを一層楽しいものにさせてくれます。」とある。

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 堀川の色は緑だが、臭いはない。船頭さんによると、毎朝、水を補給しているそうだ。川の周囲には、藤の木が紫色の花を付けていたり、少しだけだが花菖蒲が咲いていたりする。水の中には野鳥や亀がいて、のんびりとした雰囲気だ。ただし、灯台下暗しとでも言うのか、お城の直ぐそばを走っているというのに、肝心のお城の姿が見えない。コース終盤に差し掛かって、一瞬のことだがやっと見ることができた。さて、背の低い橋に差し掛かった。天井というか、屋根が下げられる。乗客はそれに合わせて倒れ込んだり、前屈みになる。やがて橋が過ぎると、また天井があげられて元に戻る。確かに、アトラクションとして見れば、なかなか面白い。橋によっては、船頭さんが「この橋の下は、声が響くんです。」といって、民謡まで歌ってくれる。サービス満点だ。

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 また、船頭さんは「ここ島根県の人口が最も多かったのは、昭和35年(1960)で、93万人。ところが、その後 、人口は減っていって、今は70万人を切った。国の高度経済成長は、島根県には関係なかったのでしょうか。」と語る。いやいや、高度経済成長は昭和30年代半ばから40年代半ばにかけてのことであり、島根県もその恩恵を受けたからこそ、その当時に人口最盛期を迎えたわけである。ところが平成年間に入り、それまで日本の経済成長を支えてきた製造業が、次々に台頭する韓国、台湾、中国などとの競争に破れ、折からの円高もあって日本各地にあった工場を国外へと移すようになった。その結果、地方では働き口がなくなり、若者は職を求めて都会に出て、地方の空洞化と高齢化が進んだ。これは、経済のグローバル化と、日本経済の衰退の縮図なのだ・・・と、こういうことではないかと思っている。

 しかし、地方といっても、例えば愛知県は、人口は継続的に増加している。それというのも、トヨタという輸出で稼ぐ基幹産業があるからこそだ。たまに名古屋に行くと、新しいビルが雨後の竹の子のように立っているのから驚く。こういう稼ぎ頭のない地方は、そもそも若者にサービス業くらいしか新しい職を与えられないのだから、人口が漸減していくのは、残念ながら避けられないことだ。かつて、これを政治的に是正しようと、東京などへの一極集中を是正するといって、法律で、都市部の工場立地制限と、大学立地の制限策がとられたことがある。ところが製造業の工場は賃金の高い都市近辺での立地は避け、地方に向かうどころかそのまま海外へ工場を移転してしまった。大学についても、結果的には一部の大学を東京の中心部から八王子近辺に追い出すにとどまっただけで、そのうちかなりの大学が再び23区内に戻ってきてしまった。東京の中心部にいないと、学生も何の知的刺激も受けないし、また教える教授の方も不便を感じるからである。そういうことで、この法律は廃止されてしまった。


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 その点、この松江は、また別の道を歩むことにしたようだ。昔から街並みが変わらないというのを逆手に取って、それを観光客に見せる観光業だ。そもそもこの松江は、戦国大名の尼子氏が築いた月山富田城という山城から、堀尾吉晴の子である堀尾忠氏が統治に便利なようにと平城を造営する場所を探し、その結果、今の土地に決めたもので、その当時の縄張り(都市計画)が、現在もそのまま残っているという。だから、この堀川遊覧船に乗っていると、昔のままの街並み、創建当時の石垣など、どこか郷愁を思い起こされる風景に出合うのである。言葉は悪いかもしれないが、最近の経済成長から取り残されていたからこそ、古き良き日本の情景が残り、それがまたとない観光資源になっているというわけである。この遊覧船は平成9年に始まり、船頭さんは60から70歳代が主力で頑張っているとのこと。その年代が活躍できる場を設けるというのはとても良い考えだし、この地で人生経験を積んだ船頭さんの話を聞くと、実に為になる。それに、地域最大の観光資源(?)である出雲大社とセットで観光客にアピールできれば、十分に生き残ることができるだろう・・・とまあ、船に乗りながらそういうことをぼんやりと考えていたら、50分間は、瞬く間に過ぎてしまった。


9.松江フォーゲルパーク


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 松江中心部の名所旧跡をあらかた見て、堀川の遊覧船にも乗ったので、さてこれからどこへ行こうかと思っていたところ、乗り込んだレイクラインバスが宍道湖温泉駅に着いたので、その名前に惹かれて降りてみた。さぞかし古い温泉旅館が並んでいる街かと思いきや、だだっ広いバス乗り場とポツンと建っている一畑電車の駅があるだけで、何だか物寂しい。その電車も、1時間に1本しかない。出たばかりだから、あと1時間弱も待たなければならない。交通網がこれほど薄いとは・・・時間が有効に使えない、困ったものだと思いながら周りを見回した。街路樹に「ベニハナミズキ」というのがあって、普通のハナミズキが白い花をつけるのに対して、これはその名前の通り赤味のあるハナミズキの花をつけている。それを撮っても、なかなか時間がつぶせない。

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 ふと見ると、白くて大きな建物があって、ホテルらしい。そこの喫茶店に入って行き、出雲プリンと有機珈琲を頼んだ。店員さんによると、温泉街がこの場所に移転してきたそうだ。珈琲を飲みながら、次の作戦を立てる。この駅が始発の一畑電車に乗ると、松江イングリッシュ・ガーデンと、松江フォーゲルパークという行楽地へ行ける。「フォーゲル」というのは、ドイツ語の鳥のことだろう。何となれば、私の学生のときには「ワンダーフォーゲル部」、略して「ワンゲル部」つまり渡り鳥という部があって、軽い登山やスキー、ハイキングに興じていたものだ。すると、ここに行けば鳥が撮れる。明日は牡丹ばかりを撮ることになるから、ここで動きのある鳥を撮るのは一興だと思って、松江フォーゲルパークに行くことにした。

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 着いてみると、「午後3時からショーが始まります。真っ直ぐ行って突き当たりです。」と言われた。あと15分しかない。正式な順路とは逆になったので気が引けたが、ともかく直進して、温室センターハウス奥の広い会場に腰を下ろした。学齢期前の小さなお子さんを連れた家族連れが多い。しばらく待っていると、ミミズクを抱えた係員のお姉さんが登場した。マレーワシミミズクというらしい。顔の左右に、斜め上に向けて耳のような羽が突き出している。それを広い会場の端から端まで飛ばすのである。思いのほか、早い速度で飛ぶ。野生では狩をしているから当然か。体長は僅か40cmくらいだが、両翼を広げてサーっと頭の上を通り過ぎるので、迫力がある。観客がそのコース上でうっかりと立ち上がろうものなら、ぶつかりそうだ。

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 ミミズク、フクロウの目は、2km先の物まで見えるくらいの性能があるそうだが、目玉は顔に固定されていて、動かすことができない。その代わり、首全体を動かして見るそうだ。それも、180度どころか、270度だというから、恐れ入る。こちらの観客の方を向いた係員の腕に止まるのだけど、首から上の顔だけはこちらを向いているから、妙な感じだ。次に登場したのはサイチョウ(犀鳥)で、その名前のように頭から嘴にかけて、犀の角のようなものが付いている。雑食性で、りんごが好きだという。ただし、もらったりんごが甘くないと、吐き出してしまうそうだから、笑ってしまう。その次に飛んだのは、フクロウで、飛ぶ前に発する鳴き声に迫力があった。飛び立った瞬間の良い写真が何枚か撮れたが、目の前を飛んでいるときは、余りにも早すぎて、ピントを合わすことができなかった。

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 その飛行ショーが終わり、正式な順路に戻ろうと、センターハウスを正面に向けて抜けて行った。途中、数限りないほど色々な種類のフクシアとベゴニアの花があった。フクシアの花は、鉢に植えられて、天井から吊り下げられている。実は私の家の近くにフクシアの花を植えているお宅があって、日頃から面白い花だと思っていた。フクシアの花はいずれも下向きで、典型的なのは真ん中の筒が紫色でその中心に数本の雄しべがあり、その筒を囲うようにピンク色の数枚の花びらがある。その形からして、「釣浮草」と呼ばれるほどだ。それが、ここでは筒がピンク色で花びらが白色とか、筒ではなくて八重のようになっているものとか、様々な種類があって見飽きない。係の人に「こんなに多くの鉢が吊り下げられていて、水やりはどうしているんですか。」と聞くと、「全自動で水をやっているから、大丈夫です。」とのこと。納得した。

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 そこをやっと抜けて、本来の順路に戻る。入り口右手から、動く歩道で丘の上まで登って行く。これなら、バリアフリーだ。まず、展望台があり、次に水鳥が棲む鳥舎がある。その中に入って、鳥達を見ることができる。ペリカンがいて、時々、長い嘴を水に突っ込んで斜め上に上げている。水を飲んでいるのかもしれない。路を歩いていると、その名も「ショウジョウトキ(猩々朱鷺)」という緋色の小型の朱鷺が気安く近づいてくる。

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 熱帯鳥温室には、巨大なオレンジ色の嘴を持つオオハシ(大嘴)、先ほど紹介したサイチョウ(犀鳥)、緑色の鶏冠を持つエボシドリ(烏帽子鳥)がいる。特に犀鳥は、2年前にマレーシアのKLバードパークで実際に飛んでいるところを見たことを思い出した。それにしてもこの「犀の角」は、一体どういう役割を果たしているのだろうか、不思議な気がするばかりである。温室には、ケープペンギンもいて、園内をヨチヨチ歩くイベントもある。ふれあい温室に、緑の鳥、エボシドリ(烏帽子鳥)がいて、これが実に可愛い。あちこちのキョロキョロ見るときに、頭と身体を「く」の字のように傾けて、「あれ、何だろう。」とばかりの仕草をする。小さな子供そっくりだ。アフリカ最南端の密林にいて、昆虫や果実を食べている鳥らしい。

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 「そば亭不昧庵」という蕎麦屋があった。遠くから見て早合点して「まずい」とは、これいかにと思ったが、近付いてみると、それは誤解だった。これは「松平不昧(まつだいらふまい)」公の名前から取ったもので、紛らわしいが「不味」ではなく「不昧」、つまり偏が「日」であって「口」ではない。松平治郷はあまり全国区の名前ではないので知らなかったが、松江藩中興の祖とされる松平家第7代藩主であり、著名な茶人で、「不昧公」と言われたそうだ。今回の松江市内の旅行で、その「不昧」の名と剃髪姿の肖像画をよく見かけたものだ。ちなみに「不昧(ふまい)」とは、学問に明るいこと、道理にくらくないこと、利欲に眩まされないことをいうらしい(大辞林)。一つ、賢くなった。


10.由志園

 由志園(ゆうしえん)は、中海に浮かぶ大根島にある。「大根島」「おおねしま」とでも呼ぶのかと思っていたら、何とそのまま「だいこんしま」と言うそうだ。あまり夢のない呼び方だが、地元の特産品は、牡丹と朝鮮人参とのこと。なるほど、いずれも味わい深い産物だ。実は、私はかねてから、大根島が牡丹の産地だということを知っていた。というのは、自宅近くの上野東照宮で冬牡丹展というのを毎年1月に開かれていて、その牡丹の産地ということで、こちらの名前が掲げられていたからだ。さて、その大根島へは、米子から日のノ丸バスで境港へ行き、そこから松江行きのバスに乗っても良いが、私はゴールデンウィークの始まりということもあって、タクシーで行くことにした。話し好きの運転手さんに当たれば、地元にまつわる諸々の話が聞けて面白い。

 タクシーに乗り込んだら、運転手さんは、なかなかの博識だったので、この選択は、正解であった(注1)。途中、立派な橋を渡っていると思ったが、運転手さんに言わせれば、これは中海干拓計画の中止に伴って作られたという。そういえば、有明海の干拓事業のような、そういう話があったことを思い出した。それまでこの地にあった橋は、東京の勝鬨橋のように船が近づくと跳ね上がる形のものだったが、この新しい橋は水面上44mあるから、大丈夫だそうだ。そこを通り過ぎ、由志園に近づくと、大渋滞となった。すると運転手さんは気を利かせて、反対方向から回り込むようにした。松江方面から境港行きのバスが通る道だそうだ。そちらは渋滞することなく、直ぐに由志園に着いた。


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 由志園の創設者は、門脇由蔵と、その子の栄である。由蔵は、観光開発をしようと大根島に純和風の日本庭園を造ろうと計画したが、果たせないままに亡くなった。その跡を継いだのが栄で、昭和50年に開園し、父由蔵が志した庭園ということで、「由志園」と名付けたという。入り口の建物を抜けると直ぐそこに、赤と白の牡丹の花が松の木を囲む地面に敷き詰められている。松の緑の葉と牡丹の花の色との補色対比が、目に鮮やかである。緑も赤もお互いに引き立て合って、これほど美しい色彩があるとは思わなかった。更にその向こうには日本庭園があり、その池の中にびっしりと赤と白の牡丹の花が浮かぶ「池泉牡丹」が現れる。本日はその初日であるが、それにしても隙間なく池面を牡丹の花びらで埋めたものだ。池面が赤と白になり、その向こうに丸く刈り込まれた緑の木々、そして岩があり、その背景にまた木々があって、その上は真っ青の快晴の空である。いやこれは写真の撮り甲斐がある。しばらく、色々な角度からカメラを構えて、シャッターを押した(注2)。そこを撮り終え、順路に沿って進んでいくと、建物の中に様々な色の牡丹が置かれている。花を長持ちさせるように、気温が低く調整されている。たぶん、季節外れの時期に牡丹の花を見てもらおうとする建物なのだろう。

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 外に出ると、一面に牡丹の花が咲いている。牡丹という花は、各個体の形にはそれほど目立つ差はないが、それにしても色は様々である。ピンク色、赤色、白色、それらの混じった色、黄色、紫色などだ。薔薇ほどではないにせよ、こちらも育種家がいて、たくさん生み出しているものとみえる。中には面白い名前が付けられている花もあるが、この日は時間がなかったので、名前をメモすることはしなかった。

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 次に、滝のあるエリアに出た。滝の水量は多く、しかも苔むした岩に囲まれていて、そこだけを見れば深山幽谷の趣きがある。振り返ると、滝から渓谷を通って流れる水の先は、牡丹の花に覆われた日本庭園の池である。更にその先には、池を跨ぐ形の赤い橋がある。さほど大きくはないこんな敷地に滝、渓谷、川、池まで作ってしまうなんて、ちょっとした大名庭園のようである。滝から降りて行くと、石楠花の花があちらこちらに植えられている。赤色、ピンク色、白色の花がまとまって咲くから、いずれも見応えがあって美しい。園内を一周してもう最後という頃に、まるで龍安寺の石庭を思わせる庭に出た。白砂に砂紋が付けられていて、水の動きを、表している。ただ、惜しむらくは、岩がもう少し存在感があったら良いのにという点である。要は、もうふた回りほど大きくてどっしりした岩だと、それなりに様になったのではないかと考える。

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 お昼近くになり、由志園が混み合ってきた。そこで、ちょうど12時の路線バスで、境港に戻った。わずか16分間の乗車で、直ぐに着いた。境港は、ゲゲゲの鬼太郎がシンボルで、鉄道車両にも、駅やフェリーの待合室にも、更にはお土産品まで、鬼太郎シリーズのオンパレードだ。一昨日、初めて米子空港に着き、JR境港線に乗ったときには、お化けの漫画にかなり抵抗を感じたが、ああまたかと思うと、見慣れてきた。それにしてと、例えば、目玉オヤジなど、どこが可愛いと思うのか、未だにわからない。それがお土産になっているから、もう何をかいわんやである。

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 境港に来て、まず地元の名物である出雲の割子蕎麦を食べた。次に「汗をかいたし、疲れたし、日焼け止めクリームを早く落としたい。」などと思っていたら、たまたま、このフェリー待合室の建物の最上階に、「展望サウナ風呂」というのがあるのを見つけた。米子空港まで行く電車は、2時間後に乗ると、午後5時の飛行機に十分に間に合う。このお風呂に入ることにした。

 その名の通り、なかなか見晴らしの良いお風呂で、正面には隠岐の島に行くフェリーが停泊している。その向こうにはフェリーが通ってきた水道が、更に向こうには陸地が見える。それを見下ろしながら、ジャグジー風呂に入っている。他の入浴客は、2人いるだけだ。また、1人が入ってきたが、いずれもかなりのお年寄りである。この居心地の良さが、好きなのだろう。お風呂から上がり、冷たいお茶を飲む。とてもリフレッシュすることが出来た。やってきたJR境港線の気動車に乗って、米子空港に行った。そこで、ターミナルビルを歩いていると、出雲名物の割子蕎麦を提供する蕎麦屋があった。食べたくなって、夕食には早過ぎる時間だが、ついいただいてしまった。帰りの飛行機は定刻通り出発して、羽田空港には着陸時の混雑のため、10分ほど遅れて到着した。

 そういうことで、良い写真が撮れ、珍しいものも見たし、知的好奇心も満たされた。とても、満足出来る旅だった。惜しむらくは、家内と一緒に来られなかったことだが、また体調が回復したら、無理のないスケジュールの旅を考えたい。



(注1)中海に浮かぶ大根島

 タクシーの運転手さんから聞いた話に基づいて、大根島の由来を記しておきたい。もともと中海は、半島であった湾口部が砂州でふさがれて汽水湖になったもので、そこに浮かぶ2つの島のうち大きい方が大根島であり、実は火山だという。日本一低い火山だそうだ。二大産物のうち朝鮮人参は、200年前から松江藩が奨励して藩内全域に広がったものの、収穫に6年、休畑期間が15年と大変に手間がかかるので、今や大根島にしか残っていないという。牡丹は、300年前に全隆寺の住職さんが薬用に供するために静岡から持ち帰ったものが始まりで、今や苗木出荷量は120万本と、全国出荷量の8割を占めるようになったそうな。石楠花の苗木に牡丹の芽を継ぐ手法が開発されてから生産量が急拡大し、島内の女性は、苗木を背負って全国各地に売り歩いたものだという。タクシーの通る道すがらに綺麗な牡丹の畑を見かけたが、運転手さんに言わせると、昔はこんなものではなく、もっともっとあらゆる所が牡丹畑だったとのこと。


(注2)由志園の池泉牡丹の花

 日本庭園の池一面に3万輪もの牡丹の花を浮かべるなんて、壮大な浪費ではないかと思う向きがあるかもしれないが、実はそうでもないという。大根島は、先程から言っているように、牡丹の産地である。牡丹は苗木の形で売られるが、花が咲いて種を付けるようになると苗木の負担となるため、花は受粉する前に摘んでしまうのだという。そうして摘まれた花を譲り受けて、この展示を始めたそうだ。




(2018年5月1日記)


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